真鍋さんは、コートを脱ぎながら小さくくしゃみをした。
口元を手で覆ったまま、誰にも聞こえないくらいの声で、何か言った。
「……くさめ」
町田駅から少し歩いたところにある、古い喫茶店の奥の席。平日の15時過ぎで、客は私たちのほかに、新聞を広げた老人が1人いるだけだった。
「すみません。癖なんです」
真鍋さんは32歳。相模原の歯科医院で衛生士をしている。白いマスクをしていて、飲み物を頼むときも外さなかった。
くしゃみのあとにまじないを唱える習慣は、古くからある。徒然草には、清水寺へ向かう道すがら「くさめ、くさめ」と唱え続ける年老いた尼が出てくる。くしゃみをしたときにこう唱えなければ死ぬのだと、尼は言う。比叡山に預けている養い子が、今ちょうどくしゃみをしているかもしれないから、と。
700年近く前の話だ。似たような言い伝えが、どこかの田舎に残っていてもおかしくはない。
その程度に考えていた。
「録音、してもらえますか」
ICレコーダーを出す前に、彼女のほうから言われた。
「むしろ、してほしいんです」
以下は、そのときの録音をもとに書き起こしたものだ。
◇
祖母の家は、奈良の南のほうです。山の中の、バスが1日に3本しか来ないようなところで。
小学生のころは、夏休みになると1週間くらい預けられてました。両親が共働きだったので。
古い家でした。玄関を入ると土間があって、上がったところに囲炉裏の跡があって。いちばん奥に、納戸がありました。
納戸っていっても6畳くらいの部屋です。窓がなくて、使わない布団とか長持とか、祖父の遺品とかが詰め込んであって。襖はいつも閉まってて、子どもは入ったらあかんって言われてました。
9歳の夏です。
昼寝から目が覚めたら、家の中に誰もいなかったんです。祖母は畑に出てて、いとこの健ちゃんは、たぶん川に行ってた。
蝉の声と、扇風機が首を振る音だけ。
そのとき、納戸の襖の向こうから、
くしゅん。
小さい、乾いたくしゃみでした。お年寄りがするような、ちょっと湿った息が混じってる。
祖母が帰ってきたんだと思いました。だから襖の前まで行って、おばあちゃん?って。
返事はなかったです。
襖に手をかけて、ほんの少しだけ開けました。
中から、ひやっとした空気が出てきたんです。黴と、樟脳と、古い布団の匂い。真夏なのに、納戸の中だけ冷たくて。
暗がりに、布団が天井近くまで積んであるのが見えました。
その、いちばん下の1枚が。
ふくらんで、しぼんだんです。
ゆっくり。人が息をするくらいの速さで。
布団の隙間から、灰色の綿埃が、ふわっと出てきて。畳の上を転がって、わたしの足の指に当たって止まりました。
くしゅん。
今度は、布団のほうからじゃなかったです。
襖のすぐ裏。わたしが手をかけてる襖の、紙1枚向こうから。
◇
後ろから口を塞がれたのは、そのときです。
祖母でした。土のついた軍手のまま、わたしの口を押さえて、もう片方の手で襖をぴしゃっと閉めて。
「くさめ、くさめ、くさめ」
耳元で3回。
祖母の手、震えてました。軍手越しに、土と汗の匂いがして。
そのまま囲炉裏の部屋まで引きずられて、正座させられて。祖母はしばらく黙って、納戸の襖を見てました。わたしも見てました。襖は動かなかったし、もう何も聞こえなかった。
それで祖母が、こう言ったんです。
「聞こえても、返事したらあかん。くさめ言うて、黙っとき」
わたしが泣きそうな顔してたからか、祖母は少しだけ声をやわらげて。
「あれはな、噂されるんが好きなんや」
「人に噂されたら、くしゃみ出るやろ。あれもおんなじや。ほんで、噂しとる者のとこへ寄ってくる」
ひとつ褒められ、ふたつ憎まれ、って、祖母は指を折りました。
「みっつ惚れられ」
「惚れられたら、もう離れてくれへん」
誰が、って聞いたら、祖母は答えないで、仏間のほうを見たんです。
鴨居に白黒の写真が並んでて、その端に、若い男の人のがありました。祖母の弟で、20代で亡くなった人だって、あとで母から聞きました。
お酒の席で、あの納戸の話を面白おかしく触れ回ってたそうです。村の寄り合いとか、町の飲み屋とかで。
ある朝、布団の中で冷たくなってて。
口と鼻の中に、灰色の綿埃がぎっしり詰まってたって。
指で掻き出しても、奥から、奥から、出てきたって。
「誰にも言うたらあかんで」
祖母はそう言って、それきり、その話は二度としませんでした。わたしが大人になってからも、1回も。
◇
(真鍋さんはここで、マスクを少しだけずらしてアイスティーを飲んだ。ストローを離すと、すぐにマスクを戻した。グラスを置くとき、彼女の目が一瞬、私の肩越しに後ろを見た。私の後ろは、誰も座っていないボックス席だった)
◇
祖母が亡くなったのは、今年の3月です。
最後の3年くらいは、町の施設に入ってました。認知症が進んで。
お見舞いに行くと、わたしのこと、母の名前で呼ぶんです。それはまあ、よくあることで。
気になったのは、祖母がずっと喋ってたことでした。
ベッドの上で天井を見ながら、ぶつぶつ。最初は聞き取れなかったんですけど、耳を近付けたら、
「納戸の」
「布団の下の」
「くしゃみしはる」
「……ほら、また」
あれの話を、してたんです。
80年以上、誰にも言わなかったことを。
帰り際に、介護士さんが、すごくいい方なんですけど、ちょっと笑いながら言ったんですよ。
「おばあちゃん、夜中によう、どなたかとお話ししてはりますよ。お相手の方、風邪ひいてはるみたいで。くしゃみばっかりしはって」
祖母の部屋、個室なんです。
亡くなったのは、その2週間後でした。夜中に、眠ったまま。
駆け付けたときには、もうきれいにしてもらってて。さっきの介護士さんが目を赤くして、「お口の中も、きれいにさせてもらいましたから」って。
……何できれいにしたのか、聞けませんでした。
ベッドの下に、灰色の埃のかたまりが1個だけ残ってました。握りこぶしくらいの。
◇
お葬式は、村の公民館でやりました。
精進落としの席で、健ちゃんと隣になって。健ちゃんは2つ上のいとこで、大阪で営業をしてる人でした。お酒が入ると声が大きくなる人で。
「なあ沙織、覚えてる? 納戸のくしゃみ」
健ちゃんも、聞いたことがあったんです。わたしより前の夏に。
わたし、そのときまでほとんど忘れてたんですよ。20年以上前のことだし、子どもの聞き間違いだと思ってたし。
だから、笑っちゃったんです。覚えてる覚えてる、あれ怖かったよね、って。
けっこう長く話しました。ばあちゃん必死やったなとか、結局なんやったんやろなとか。親戚のおじさんたちも寄ってきて、健ちゃんが身振りつきで、くしゅん、ってくしゃみの真似をして。みんな笑ってました。
祖母のお骨が、まだ祭壇に載ってる部屋で。
◇
相模原に戻ったのは、次の日の夜です。
1人暮らしで、1LDKの2階。荷物をほどいて、喪服をクリーニングの袋に入れて、シャワーを浴びて。ベッドに入ったのは0時過ぎでした。
疲れてたから、すぐ寝たと思います。
目が覚めたのは、音がしたからです。
くしゅん。
寝室の、足元の側にクローゼットがあるんです。折れ戸の。その向こうから。
小さい、乾いた、お年寄りみたいな。
9歳のときに聞いたのと、同じでした。
体が動かなくて。天井を見たまま、息だけしてました。
聞こえても、返事したらあかん。
「……くさめ」
布団の中で、唇だけ動かして言いました。
それから朝まで、何も聞こえませんでした。
明るくなってから、クローゼットを開けたんです。
匂いがしました。黴と、樟脳と、古い布団。わたしのクローゼットに樟脳なんか入れてないんです。
床に、綿埃が落ちてました。灰色の、ふわふわしたのが点々と。
クローゼットの奥から、ベッドのほうへ向かって。
前の週に、掃除機をかけたばかりでした。
◇
健ちゃんからLINEが来たのは、その3日後です。
トーク画面、まだ残してあるので読みますね。
4月2日、23時41分。
〈会社のロッカーでくしゃみ聞こえたんやけど笑〉
〈誰もおらんかった〉
〈ばあちゃんのやつかな笑 沙織んとこは?〉
返信、できなかったんです。既読だけつけて。
4月9日、2時17分。
〈2回目〉
〈風呂場〉
〈嫁に話したら笑われたわ〉
4月11日、19時3分。
〈なあ 話さんかったらええんかな〉
〈飲み会で話してもうてん ネタになる思て〉
〈あほやな俺〉
最後が、これです。
4月14日、3時4分。
〈3〉
それだけ。数字が1個。
健ちゃんが亡くなったのは、その日の朝でした。
奥さんの美穂さんから電話があって。朝、起こしに行ったら、もう、って。
美穂さん、電話口でずっと同じことを言ってました。
「口ん中にな、灰色の、綿みたいなんが詰まってて」
「掻き出しても、奥から、奥から出てくんねん」
「お医者さんは、誤嚥やろって。誤嚥て。何を飲んだら、ああなんの」
◇
健ちゃんのお葬式で、美穂さんに聞かれたんです。
火葬場の待合室で、2人きりになったときに。
「あの人、何か言うてへんかった? くしゃみがどうとか。最後の何日か、ずっとそればっかりで」
美穂さん、目の下が真っ黒で。何かにすがるみたいな顔をしてて。
黙ってられなかったんです。
話しました。納戸のこと、祖母のこと、大叔父のこと。全部じゃないけど、ほとんど。
美穂さんは最後まで黙って聞いてて、わたしが話し終わると、
「……ほな、うちも、あの人から聞いてもうてるわ」
それだけ言って、窓の外の煙突を見てました。
その晩です。
ベッドで横になって、うとうとしかけたとき。
くしゅん。
真下からでした。
ベッドの下。マットレスの、すぐ裏。
くしゃみの勢いで、背中の下のマットレスが、ぶるっと震えたんです。
それから、
ずっ
って、洟をすする音。
ベッドの下で、何かが動き始めました。足のほうから、頭のほうへ。床板が、み、し、って鳴って。わたしの体の真下を、わたしと同じ向きで、這ってくる。
顔の真下あたりで、止まりました。
ふう、ふう、って。呼吸が、マットレス越しに背中に伝わってくるんです。
向こうも仰向けなんだって、わかりました。
わたしと、マットレス1枚挟んで、顔と顔を合わせてる。
「……くさめ」
声が震えて、ちゃんと言えたかどうか、わかりません。
朝になって、床に這いつくばって、スマホのライトでベッドの下を照らしました。
ベッドの裏側の、すのこの板。
埃で灰色になってて、そこに手の跡がありました。
指が長くて、爪の先まで跡が残ってて。下から、板をぺたっと押し上げるみたいに。
1個じゃなかったです。
わたしが寝てるちょうどその位置に、何十個も、重なって。
◇
それから、もうすぐ5か月になります。
誰にも話してません。職場でも、母にも。
でも、いなくならなかったんです。
毎晩じゃないけど、夜中に目が覚めると、ベッドの下で息をしてる。くしゃみはしない。洟をすする音だけ。ずっ、ずっ、って。何かの匂いを嗅いでるみたいに。
朝、枕に埃が落ちてることがありました。髪に絡まってることも。
7月の終わりに、朝起きたら鼻の奥に何か詰まってる感じがして。
かんだら、ティッシュに、灰色の綿が出てきました。
指の先くらいの。
(真鍋さんはここで言葉を切った。マスクの上の目が、私を見ていた。瞬きを、しなかった)
◇
「……それなのに、どうして話してくれたんですか」
私が聞くと、真鍋さんは少し考えるような間を置いた。
「ずっと考えてたんです。おばあちゃんは、なんで80年も無事やったんやろって」
「話さなかったからだと思ってました。でも、たぶん違うんです」
「あの村、大叔父さんが言いふらしてたから、あれのこと知ってる人がいっぱいいたんですよ。みんな、ちょっとずつ噂してた。だからあれは、誰か1人のとこに、ずっとはいられなかった」
「あれは、噂されてるほうへ行くんです」
「それに、噂って、話す人だけやないでしょう。聞く人がおって、はじめて噂になるんです」
そのときだった。
くしゅん。
私の真後ろだった。
背中合わせになっている、後ろのボックス席から。
小さな、乾いた、年寄りのようなくしゃみだった。
振り返った。
誰もいなかった。店に入ったときから空いていた席だ。赤いビニールの座面の真ん中に、灰色の綿埃がひとかたまり、落ちていた。
古い布団と、樟脳の匂いがした。
新聞の老人は、いつの間にかいなくなっていた。
向き直ると、真鍋さんはマスクを顎まで下ろしていた。初めて見る顔だった。笑っていたのかどうかは、わからない。
「1回目ですね」
と、彼女は言った。
「わたしのやなくて」
私は何も言えなかった。
「最初にDMで、長々と書いて送ったでしょう。あれを送ってから2週間、1回も聞いてないんです。ベッドの下も、静かで」
真鍋さんは伝票を取って、立ち上がった。
「記事にしてくださいね。なるべくたくさんの人に、読んでもらえるように」
「読んだ人が、また誰かに話してくれたら。……そしたら、みんな少しずつで済むと思うから」
店を出る前に、彼女は1度だけ振り返った。
私ではなく、私の後ろの席を見ていた。
それから、そこに向かって小さく頭を下げた。
◇
録音を書き起こしたのは、その週末だった。
空調の低い唸り、食器の触れ合う音、真鍋さんの声。1時間12分の録音を、何度も止めながら文字にしていった。
くしゃみは、1回ではなかった。
祖母の家の納戸の話をしているとき、録音の奥のほうで、ごく小さく、くしゅん、と鳴っている。その場では気付かなかった。
健ちゃんのLINEを読み上げているとき、もう1度。さっきより、はっきり。
それから、私が振り返った、あの1回。
音が、少しずつマイクに近付いていた。
真鍋さんが店を出たあとも、録音は2分ほど続いている。私が会計の済んだテーブルで、ぼんやり座っていた時間だ。
その最後のほうに、
ずっ
という音が入っていた。
レコーダーは、テーブルの上の、私の手元に置いてあった。
◇
2回目は、書き起こしの途中で来た。
夜の11時過ぎ。私の部屋は1Kで、机は窓際にある。背中側にベッドと、押入れを改装したクローゼット。
くしゅん。
後ろのどこかからだった。
振り返らなかった。
「くさめ」
自分の声が、ずいぶん遠くに聞こえた。
翌朝、キーボードのキーの隙間に、灰色の綿埃が詰まっていた。
掃除機の届かない、机の下の奥のほうにも、同じものが溜まっていた。拳くらいの大きさで、ちょうど、足を置く位置に。
記事にしていいか確認するために、真鍋さんにDMを送った。返信はすぐに来た。
〈大丈夫です。載せてください〉
〈最近、よく眠れてます〉
〈ありがとうございました〉
◇
これで、2回だ。
私がこの話を公開するのは、たぶん、真鍋さんと同じ理由だと思う。
噂は、話す人と聞く人がいて、はじめて噂になる。
ここまで読んだのなら、あなたはもう聞いてしまった。
どこかで小さなくしゃみが聞こえても、返事はしないでほしい。振り返らずに、くさめ、とだけ言って、黙っていてほしい。
それで足りるのかどうかは、私にもわからない。
だから、この話を誰かにしてほしい。
できるだけ、たくさんの人に。
この記事は、予約投稿にしておく。私が何もしなくても、明日の朝には公開されるように。
◇
ここまで打ったところで、手が止まった。
机の前の窓は、夜になると鏡になる。外が真っ暗で、部屋の明かりだけが映り込むからだ。
ガラスに、キーボードに向かう私が映っている。
その右肩のすぐ後ろに、顔がある。
灰色の、綿埃を押し固めたような顔。目のところは、ただ暗くへこんでいるだけだ。口もない。鼻にあたるところだけが、ひく、ひく、と動いている。
私の頭の匂いを、嗅いでいる。
振り返ってはいけない。わかっている。だから、ガラスを見たまま、これを打っている。
首筋に、ぬるい息がかかる。
古い布団と、樟脳の匂い。
すうっ、と、それが大きく息を吸い込んだ。
くしゃみの前の、あの音だ。
くさめ、と言おうとして開けた口の中に、乾いた綿のようなものが、ふわりと

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