日雇いアプリで見つけたバイトだった。
時給4,500円、夜から朝まで、部屋にいるだけ。
怪しいとは思った。
でも当時の俺は金が必要で、何も考えずに応募した。
面接で言われたのは、たった一つのルールだった。
「絶対に、声をかけられても返事をしないこと」
去年の冬の話だ。
会社を辞めて、転職活動をしていた時期。
貯金は半年分くらいあったが、無職期間が長引いて不安だった。
日雇いアプリで仕事を探すことにした。
引っ越しの手伝い、倉庫整理、飲食店の皿洗い。
そういう、誰でもできる単発の仕事をいくつかこなしていた。
それで月十万円くらいにはなった。
ある夜、いつものようにアプリを眺めていたら、見たことのない案件が出てきた。
「夜間待機業務」
時給4,500円。
勤務時間は二十時から翌朝六時まで。
時給に対して、業務内容の説明が異様に短かった。
「指定の部屋で待機していただきます。簡単な見回り業務あり」
それだけだった。
場所は、都内の住宅街の一軒家。
最寄り駅から徒歩十分くらい。
応募者数は、ゼロだった。
時給がこれだけ高いのに、誰も応募していない。
これは絶対に何かあると思った。
でも、十時間で四万五千円。
一晩で家賃の半分が稼げる。
俺は、応募した。
応募して数時間後、運営から面接の連絡が来た。
普通、こういうアプリは面接なしですぐ働けるシステムだが、この案件だけは事前面接が必要だった。
「現場担当者より直接ご説明があります」と書かれていた。
指定された場所は、勤務地と同じ住宅街の一軒家。
築年数の古そうな、二階建ての家だった。
外観は普通だった。
少し古いだけの、ごく普通の住宅。
チャイムを鳴らすと、五十代くらいの男性が出てきた。
スーツを着ていた。
事務所で働いている人、という雰囲気だった。
「お待ちしていました」
男性は、玄関で立ったまま、説明を始めた。
「業務内容は単純です。この家で、夜間に待機していただきます。何もせず、ただ座っていてくださって構いません」
「見回りはあると書いてありましたが」
「ああ、それは形式上です。一時間に一回、二階の部屋を見て、何も問題ないことを確認していただくだけです」
「他には何か」
男性は、少し間を置いてから言った。
「一つだけ、絶対に守っていただきたいルールがあります」
「はい」
「夜間、誰かに声をかけられても、絶対に返事をしないでください」
俺は、男性の顔を見た。
冗談を言っているような表情ではなかった。
「声をかけられるって、誰にですか」
「それは申し上げられません。ただ、一晩のうちに、何度か、声をかけられる可能性があります。男性の声、女性の声、子供の声、いろいろです。何を言われても、返事をしないでください」
「もし返事をしたら」
「困ったことになります」
男性の口調は、淡々としていた。
ふざけているようには見えなかった。
「これだけ守っていただければ、何も問題ありません。十時間が過ぎれば、勤務終了です」
俺は、考えた。
普通に考えたら、断るべきだった。
でも、時給4,500円。
そして、説明の通りにすれば「何も起きない」と言っている。
「やります」
俺は、答えた。
男性は、頷いて、家の鍵を渡してくれた。
「初日は今夜から。あと、一緒に働く方がもう一人います。Aさんという、二十代の男性です。先輩なので、わからないことがあれば聞いてください」
それで、面接は終わった。
その夜、二十時に再びその家に来た。
中に入ると、Aさんが先に来ていた。
俺と同じくらいの年齢の、痩せた男性だった。
「よろしくお願いします」
挨拶を交わした。
家の中は、生活感があった。
リビングには古いソファとテレビ。
台所には食器が並んでいる。
冷蔵庫もある。
「ここ、誰か住んでるんですか」
「いや、空き家らしい。家具はそのまま残ってる」
「そうなんですね」
Aさんは、ソファに座って、スマホをいじり始めた。
俺も、横に座った。
特に何も話すことはなかった。
「ルールのこと、聞きました?」
俺が聞いた。
Aさんは頷いた。
「うん。声に返事しちゃダメってやつ。俺、今日で四回目」
「四回もやってるんですか」
「うん。慣れたよ。最初は怖かったけど」
「実際、声って聞こえるんですか」
「聞こえる」
Aさんは、画面から目を離さずに答えた。
「夜中の二時から三時の間に、廊下から声がする」
「無視すれば、何も起きない?」
「うん、何も起きない」
俺は、少し安心した。
二十一時、二十二時、二十三時。
時間は、淡々と過ぎていった。
俺は途中、二階の見回りに行った。
二階には、寝室が二つあった。
どちらも、ベッドが置いてあるだけで、誰もいなかった。
異常はなかった。
リビングに戻って、また座った。
Aさんは、スマホでYouTubeを見ていた。
俺も、自分のスマホでネットを見ていた。
午前一時を過ぎた。
そこから、空気が、変わった。
うまく言えないが、家の中の温度が、少し下がったような気がした。
Aさんも、感じたようだった。
スマホから目を離して、廊下のほうを見ていた。
「来るよ」
Aさんが、小声で言った。
「来る?」
「うん。気配がする」
俺も、廊下のほうを見た。
廊下は、暗かった。
電気がついていなかった。
リビングからは、ぼんやりと、廊下の入り口だけが見えた。
その奥は、見えなかった。
午前一時三十分頃、廊下から足音が聞こえた。
ペタペタという、裸足の足音だった。
ゆっくりと、廊下を歩いてくる音。
俺は、息を止めていた。
足音は、リビングのドアの前で、止まった。
しばらく、沈黙が続いた。
そして、声がした。
「すみません」
男の声だった。
中年くらいの、低い声。
「あの、すみません。誰かいませんか」
普通の声だった。
道に迷った人が、家を訪ねているような、そういう声だった。
俺は、思わず声を出しそうになった。
Aさんが、首を横に振った。
口の前に、人差し指を立てた。
俺は、口を閉じた。
「すみません、ちょっと、お願いがあるんです」
声は、続いた。
「すみません、誰か、聞こえませんか」
声は、徐々に大きくなった。
「お願いです、返事をしてください」
「お願いします、お願いします」
声は、必死だった。
何かに、追われているような、切迫した声だった。
俺は、心臓がバクバクしていた。
体が震えた。
Aさんは、平然としていた。
YouTubeを見ていた。
声は、十分くらい続いた。
途中で、ドアを叩く音がした。
軽くノックする音。
「お願いします」
「お願いします」
そして、ある瞬間、声がやんだ。
足音も、聞こえなくなった。
家の中が、静かになった。
「終わった?」
俺が、小声で聞いた。
「うん。今日はこれで終わりかな」
Aさんは、ようやくスマホから目を離して、俺を見た。
「初めてだよね。よく耐えた」
「あれ、誰なんですか」
Aさんは、肩をすくめた。
「わからない。ただ、返事すると、何かが起きるらしい」
「何かって」
「何か。具体的なことは知らない」
それから、朝まで、声は聞こえなかった。
午前六時、勤務終了。
俺は、四万五千円分の仕事を終えた。
Aさんとは、その日から一緒に働くようになった。
毎晩、二人で、リビングのソファに座っていた。
午前一時三十分頃に、声が聞こえた。
毎日、違う声だった。
時には男、時には女、時には子供。
時には複数の声が、同時に聞こえることもあった。
声の内容も、いろいろだった。
「助けてください」
「お願いです、返事してください」
「ねえ、聞こえてるんでしょ」
「怒らないから、出てきて」
時には、泣き声だった。
時には、笑い声だった。
俺たちは、毎晩、無視した。
返事をしなかった。
そうすれば、何も起きなかった。
朝になって、勤務が終わって、家を出る。
それの繰り返しだった。
慣れる、というのは、こういうことだと思った。
働き始めて二週間が経った頃、新人が入った。
俺と同じくらいの年の、男性だった。
仮にBさんとしておく。
Bさんは、初日から落ち着かない様子だった。
「ルールのこと、聞きました?」
俺が聞くと、Bさんは頷いた。
「聞きました。でも、信じられなくて」
「実際に聞くと、信じざるを得なくなりますよ」
その夜、いつものように午前一時三十分頃に、声が聞こえ始めた。
その日は、女の声だった。
若い、二十代くらいの、明るい声。
「すみません、道に迷っちゃって」
「誰かいませんか」
「すみません、ちょっとだけ、助けてほしいんです」
俺もAさんも、無視した。
スマホを見ながら、声を聞き流していた。
でも、Bさんは、明らかに動揺していた。
体を、こわばらせていた。
呼吸が、荒くなっていた。
「お願いします、誰か」
声は、続いた。
「ちょっとだけでいいんです、声、聞かせてくれませんか」
Bさんが、口を開いた。
俺は、慌てて首を振った。
Aさんも、人差し指を口に当てた。
でも、Bさんは、声をかけてしまった。
「あの」
それだけだった。
たった、二文字。
その瞬間、家の中の空気が、変わった。
廊下が、静かになった。
声が、止まった。
足音も、聞こえなくなった。
「やべえ」
Aさんが、小声で言った。
「Bさん、外出ない方がいい」
「え?」
「朝まで、ここから動かない方がいい」
Bさんは、震えていた。
「な、何が起きるんですか」
「わからない。でも、たぶん」
Aさんは、それ以上は言わなかった。
俺たちは、朝まで、リビングから動かなかった。
何も、聞こえなかった。
何も、起きなかった。
午前六時、勤務終了の時間。
俺たちは、家を出た。
Bさんは、なんとか、無事に帰っていった。
「明日も、来ます」
そう言って、別れた。
翌日、Bさんは、来なかった。
連絡もなかった。
家の担当者である、あの五十代の男性に聞いた。
「Bさんって、今日来ないんですか」
担当者は、表情を変えずに答えた。
「Bさんは、退職になりました」
「退職?」
「ええ。連絡が取れなくなりまして」
俺は、Aさんと顔を見合わせた。
「連絡が取れないんですか」
「住所にも訪ねましたが、お部屋もすでに引き払われていました。引越し先は不明です」
「ご家族には」
「ご家族の連絡先も、登録されていませんでした」
担当者は、それ以上は何も言わなかった。
その夜、俺はAさんに聞いた。
「Bさん、どうなったと思います?」
Aさんは、しばらく黙ってから、こう答えた。
「俺、ここで働き始めて半年だけど、ルールを破った人、何人か見たよ」
「何人か?」
「うん。みんな、次の日から来なくなる」
「探したりは」
「しない。担当者も、何も追跡しない」
「警察には」
「届けない」
「なぜ」
Aさんは、ソファに座って、天井を見ていた。
「届けても、たぶん、見つからないから」
俺は、それから一ヶ月、その仕事を続けた。
毎晩、声が聞こえた。
毎晩、無視した。
ある日、急に怖くなって、辞めることにした。
担当者に連絡して、もう来ないことを伝えた。
担当者は、特に何も言わなかった。
「これまで、ありがとうございました」
それだけだった。
それから、半年が経つ。
俺は、新しい会社で働いている。
普通の生活に、戻った。
ただ、一つだけ、気になっていることがある。
最近、たまにスマホで、あのアプリを開く。
癖で、つい、検索してしまう。
「夜間待機」
そのキーワードで、検索する。
すると、毎月のように、新しい案件が出てくる。
時給4,500円。
夜から朝まで、待機するだけ。
応募者は、ゼロ。
場所は、毎回、違う住宅地。
でも、説明文は、いつも同じだった。
「指定の部屋で待機していただきます。簡単な見回り業務あり」
つい先日、検索していたら、ある案件が出てきた。
場所が、見覚えのある住所だった。
俺が働いていた、あの家の住所だった。
応募者数は、二人。
俺の知らない、誰かが、応募していた。
その人たちは、今日も、あの家にいるんだろう。
リビングのソファに座って、スマホを見ながら、廊下のほうを気にして。
午前一時三十分が来るのを、待っているんだろう。
そして、声が聞こえても、絶対に、返事をしないんだろう。
ところで、一つだけ、気づいたことがある。
俺がBさんと働いた、最後の夜。
Bさんが「あの」と声をかけた瞬間、
廊下の声は、止まった。
足音も、消えた。
家の中は、静かになった。
その瞬間、
家の中で、
足音が、
一つ、
増えた気がしたんだ。

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