去年の冬、フリマアプリで古い木箱を買った。
骨董品が好きで、よくフリマアプリで掘り出し物を探していた。
出品されていたのは二十センチ四方くらいの黒く塗られた木箱で、説明文には「祖父の遺品です。詳細不明。骨董好きの方へ」とだけ書かれていた。
写真は二枚だけ。
蓋と横面のアップだけで、中身については何も触れられていなかった。
落札価格は送料込みで三千円ちょっと。
その値段なら外れても痛くないと思って、特に深く考えずに買った。
届いた箱は、写真より重かった。
中に何か入っているような感触があったが、最初に箱全体をじっくり見てみることにした。
写真ではわからなかったが、箱の底に四文字の漢字が彫り込まれていた。
地名のようだった。
最初の二文字は読めたが、三文字目と四文字目は難しい字で読めなかった。
スマホで地名を検索したが、何もヒットしなかった。
地図でも出てこない。
実在しない名前なのか、それとももう廃村になった村なのか、判別がつかなかった。
少し気になったが、まあそういう古い箱もあるかと思って、蓋を開けた。
中には、紙が一枚だけ入っていた。
古い和紙のような黄ばんだ紙で、折りたたまれていた。
広げてみると、筆で書かれた達筆な文字が並んでいた。
漢字なのか何かの記号なのかも判別できないような字で、読めなかった。
紙の真ん中に、小さな茶色い染みがあった。
丸い染みで、なんとなく血のように見えた。
俺は紙を畳んで箱に戻し、棚の上に置いた。
その日はそれで終わりだった。
二日後の夜、変な夢を見た。
知らない山道を歩いていて、両側に木が生い茂っている。
歩いていくと、村が見えた。
古い瓦屋根の家が並んでいて、人は誰もいない。
家の中もどこも暗かった。
村の真ん中に小さな祠があって、俺はその前に立っていた。
中に何かが入っているのがわかった。
覗き込もうとした瞬間、目が覚めた。
朝の四時だった。
汗をかいていた。
気持ち悪い夢だなと思って、もう一度寝た。
それから毎晩、同じ夢を見るようになった。
山道、村、祠。
同じ場所、同じ流れ。
毎晩、祠の中を覗こうとして目が覚める。
最初はぼんやりしていた風景が、夢を見るたびに少しずつ鮮明になっていった。
二週間ほど経った頃、夢の中の村に、人影が見えるようになった。
家の格子戸の向こうに、誰かが立っていた。
顔は見えなかったが、こちらをじっと見ているのはわかった。
それでも俺は、夢のことを誰にも話さなかった。
話したところで気の所為だと言われるだけだと思っていた。
ある日、フリマアプリを開いて出品者にメッセージを送ってみた。
「箱について少しお聞きしたいことがあります」と書いた。
数日経っても返信は来なかった。
プロフィールページを開いてみると、「このアカウントは存在しません」と表示された。
退会したのか削除されたのかはわからない。
少し嫌な予感がして、箱の写真を画像検索にかけてみた。
何件かヒットした。
すべてフリマアプリの過去の出品ページだった。
同じ箱が、過去に何回も出品されていた。
出品されては誰かが買い、買った人がしばらくしてから、また同じ箱を出品している。
それが十年以上、繰り返されていた。
過去の出品ページを一つ一つ読んだ。
「祖父の遺品です」
「父の遺品です」
「親戚の家にあった古い箱です」
説明文は出品者によって少しずつ違ったが、共通点が一つだけあった。
すべての出品者のアカウントが、削除されていた。
退会、停止、理由はバラバラだったが、全員いなくなっていた。
「誰かに譲り続けないといけない箱なのかもしれない」
そう思った瞬間、背筋が冷たくなった。
俺もその夜、出品しようと思った。
アプリを開いて新規出品の画面に入り、棚に置いた箱を手に取った。
その瞬間、棚から紙が一枚、はらりと落ちた。
落ちた紙は、箱に入っていたあの和紙だった。
確かに紙は箱の中に戻したはずだった。
蓋もしっかり閉めた。
なのに、紙だけが箱の上に乗っていた。
拾って、開いてみた。
書かれていた文字が、最初に見たときと変わっていた。
冒頭の文字は相変わらず読めなかったが、最後だけ、ひらがなが浮かび上がっていた。
「もどして」
そう書かれていた。
俺は紙を箱に戻し、蓋を閉め、棚に置いた。
出品はしなかった。
怖くて、できなかった。
その夜、また夢を見た。
格子戸の向こうにいた人影が、その日は格子戸を開けて出てきた。
ゆっくりとこちらに歩いてくる。
顔は見えないが、近づいてくるのはわかる。
俺の前で止まり、何かを俺の手に握らせた。
冷たくて固いものだった。
握らされたまま、目が覚めた。
朝の四時だった。
自分の手のひらを開いた。
何も握っていなかった。
ただ、手のひらに茶色い染みがついていた。
血のような色で、濡れた跡だった。
慌てて手を洗った。
何度こすっても落ちなかった。
染みは肌の中に染み込んでいて、いくら擦っても消えなかった。
人に見られると面倒なので、長袖の服で隠すようにした。
仕事中もばれないように気をつけた。
それでも染みは少しずつ広がっていった。
最初は手のひらの真ん中だけだったのが、指の付け根まで広がり、数週間後には手首の上まで届いた。
夢の中の村は相変わらず見ていた。
毎晩、人影が近づいてきて、何かを握らされる。
朝、目が覚めるたびに染みが広がっていた。
俺は限界だった。
捨てることにした。
出品して誰かに同じことをするのは、さすがに気が引けた。
だから普通にゴミ袋に入れて、燃えるゴミの日に出した。
その日の夜、また夢を見た。
ただ、いつもの村の夢ではなかった。
俺の部屋の夢だった。
俺がベッドで眠っていて、その横に誰かが立っている。
夢の中で目を開けて、横の人を見た。
顔は見えなかったが、その人は、俺が捨てたはずの箱を手に持っていた。
そして棚の上に、そっと戻した。
朝、起きた。
棚に箱が戻っていた。
ゴミ袋に入れて捨てたはずなのに、戻っていた。
俺は、もう何もできなくなっていた。
箱を棚から動かさないようにした。
動かすと夢の中でまた戻されるような気がして、怖くて触れなかった。
毎晩、夢は続いた。
毎朝、染みは広がっていた。
肩まで広がり、首の近くまで届くようになった。
服で隠せなくなった。
会社を辞めた。
外に出なくなった。
部屋の中でずっと過ごしていた。
そんなある日、何気なくネット掲示板で「呪物 フリマ」と検索した。
二年前の書き込みが一件、ヒットした。
書き込みの内容はこうだった。
「フリマアプリで変な木箱を買った。
箱の底に知らない村の名前が彫られていた。
それから変な夢を見るようになって、手のひらに染みができるようになった。
誰か同じ経験した人いない?」
書き込み主はその後レスしていなかった。
返信していたのは一人だけだった。
「それ、戻り箱って言うやつだと思う」
「戻り箱?」
「あの村に伝わる呪物。村の中で悪いことをした人を村の外に出して、誰かに渡して、村の代わりに罰する仕組み」
「どうすればいい?」
「方法は二つ。一つは村に返すこと。もう一つは別の誰かに譲ること」
「村ってどこ?」
「地図には載ってない」
「じゃあ返せない」
「うん」
「譲るしかないのか」
「そう」
「譲ったら自分は助かる?」
「助かる。でも誰かに押し付けることになる」
そこで書き込みは途絶えていた。
俺は、その書き込みを何度も読み返した。
譲るしかない。
でも自分の代わりに誰かにこれを背負わせるのか。
迷った。
数日、迷い続けた。
迷っている間にも染みは顔の近くまで広がっていた。
鏡を見るのが怖くなっていた。
ある夜、決心した。
フリマアプリを開いて、新規出品の画面に入り、箱の写真を撮った。
説明文には、こう書いた。
「父の遺品です。骨董好きの方へ」
価格は、二千八百円。
出品ボタンを押した。
数時間後、購入者が現れた。
匿名のアカウントで、プロフィール写真はデフォルトのアイコン、レビューはゼロ件だった。
俺は箱を梱包し、宅配便で発送した。
発送した翌日から、夢を見なくなった。
朝起きて肌を見ると、染みが消えていた。
跡形もなく、きれいさっぱり消えていた。
俺はベッドで泣いた。
助かったと思った。
普通の生活に戻った。
仕事は辞めていたが、新しい仕事を始めた。
数週間後、フリマアプリの取引画面で、購入者からメッセージが届いた。
「届きました。ありがとうございます」
それだけだった。
俺は返信しなかった。
そのまま取引を評価して、終了させた。
俺の役目は終わった。
そう思った。
それから半年が経つ。
時々思い出す。
あの箱を買った人は今どうしているんだろう、と。
俺と同じように夢を見ているんだろうか。
肌に染みができて苦しんでいるんだろうか。
そして、いつかまた誰かに譲るんだろうか。
たぶん、そうなんだと思う。
俺は、そのサイクルの一部になってしまったんだ。
「ごめんなさい」と心の中でつぶやいた。
でも、もう戻れない。
つい先週のことだ。
何気なくフリマアプリを開いて、検索窓にあの村の名前を入れた。
検索結果に一件、出品があった。
俺が出品したときと同じ箱の写真。
説明文も、俺が書いたのと同じ「父の遺品です。骨董好きの方へ」だった。
出品者のアカウントを見た。
「このアカウントは存在しません」と表示された。
出品ページの箱の写真を、よく見た。
底に村の名前が彫られていた。
最初の二文字は俺が買ったときと同じだった。
ただ、三文字目と四文字目が、変わっていた。
新しい二文字は、


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