三丁目のおばあさん

引っ越したのは去年の3月だった。

会社から自転車で15分、家賃は相場より少し安い。1DKの角部屋で、ベランダから見えるのは隣の駐車場と、その向こうの住宅街だった。内見のとき不動産屋は「静かな地域ですよ」としか言わなかったが、実際そのとおりだった。朝も夜も、車の音以外はほとんど何も聞こえない。

その人を最初に見たのは、引っ越して3日目の朝だった。

ゴミを出しに行くと、道の角に老婆が立っていた。灰色のカーディガンに、白髪をひとつにまとめている。手には何も持っていない。ただ立って、道の先を見ている。会釈をしても反応がなかったので、そういう人もいるだろうと思って通り過ぎた。

それから毎朝、同じ場所で見かけるようになった。

7時前後、ゴミ集積所の少し手前。姿勢はいつも同じで、両手を前で軽く重ねている。近所の人らしく、犬の散歩をしている女性が会釈すると、向こうも小さく頭を下げていた。だから最初は、ただの早起きの住人だと思っていた。

違和感を覚えたのは、5月に入ったころだ。

その日は雨で、傘を差して出た。いつもの角には誰もいなかった。少しほっとして歩き出すと、次の角――自分のアパートからは見えない位置――に、同じ老婆が立っていた。傘は差していない。カーディガンも髪も、雨に濡れているはずなのに、遠目には乾いているように見えた。

近くまで行く勇気はなく、遠回りして会社に向かった。

管理会社の担当者に世間話のついでに聞いてみたことがある。「角によくいるお年寄りの方、ご近所の方ですか」。担当者は少し間を置いてから、「ああ、あの方ね」とだけ言って、話を変えた。何丁目に住んでいるとも、名前も出てこなかった。聞き返すと「昔からいる人だから」と笑って終わりにされた。

夏になると、姿を見る回数が増えた。

朝だけでなく、夕方にも立っていることがあった。買い物帰りに見かけると、道の反対側からこちらを向いている。目が合っても表情は変わらない。ある晩、コンビニから帰る途中、自分のアパートのすぐ前、駐輪場の脇に立っているのを見た。距離は5メートルもなかった。

顔立ちははっきり見えるのに、何度見ても輪郭だけが記憶に残らない。鼻の形も、口元の皺も、見た瞬間は分かるのに、目を離すと思い出せなくなる。

9月のある晩、残業で帰りが遅くなった。

アパートの階段を上がっている途中、下の道に人の気配がした。振り返ると、街灯の下に老婆が立って、こちらを見上げていた。角ではなく、初めて建物の真下だった。

部屋に入って鍵をかけ、しばらく息を潜めていた。カーテンの隙間からもう一度確認すると、そこにはもう誰もいなかった。かわりに、道を挟んだ向かいのアパートの前に、同じ人影があった。

歩いて移動したにしては、時間が足りない。

その夜以来、角にいるところと、向かいのアパートの前にいるところを、同時に見かけることが何度かあった。同じ服装、同じ姿勢。ただ、右足だけがどちらか一方でかすかに内側を向いている。どちらの右足が内側なのか、見るたびに違う。

10月の終わりに引っ越しを決めた。理由を聞かれても、うまく説明できる自信がなかったので、会社に近い物件が見つかったとだけ話した。

引っ越しの前日、最後にゴミを出しに行くと、角には誰もいなかった。安心して部屋に戻る途中、玄関ドアの郵便受けに、白い紙が1枚挟まっていた。

何も書かれていない、ただの紙だった。

新しい部屋に移って半年ほど経ったころ、前のアパートの近くに住む元同僚と話す機会があった。世間話の流れで、あの角のことを聞いてみた。

「ああ、いるいる。前からずっと立ってる人でしょ」

元同僚はそう言って、少し笑った。それから、こう続けた。

「最近、2人に増えたって噂だけど」

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