視線

去年の春のことだから、もう一年以上前になる。

その頃の私は、実家を出て一人暮らしを始めたばかりで、何もかもが新鮮だった。都心から電車で三十分ほどの、二階建てアパートの一階。築年数はそれなりに古かったが、南向きで日当たりが良く、家賃の割には悪くない部屋だった。

引っ越してから二週間ほど経った、ある平日の夜。

仕事から帰って、コンビニで買った弁当を食べていた。テレビはつけていなかった。静かな部屋で、箸の音だけが響いていた。

ふと、視線を感じた。

顔を上げると、窓の外が見えた。

部屋の窓には、薄いレースのカーテンしかかけていなかった。夜になると、外から部屋の中がうっすらと見えてしまう、あの状態だ。引っ越してきてから、遮光カーテンを買おう買おうと思いながら、ずっと先延ばしにしていた。

窓の向こうには、誰もいなかった。

当たり前だ。一階とはいえ、窓の外は細い通路で、その先は隣の家の塀だった。誰かが立ち止まってこちらを覗けるような場所じゃない。

気のせいだろう、と思った。

その夜はそれだけだった。

 

 


 

 

次に違和感を覚えたのは、それから三日後のことだった。

やはり夕食を食べているときに、同じ感覚があった。

誰かに見られている。

今度ははっきりと、そう感じた。背筋に、冷たいものが走るような感覚。生きている間に何度かは経験する、あの「見られている」という確信。

箸を止めて、窓のほうを見た。

やはり、誰もいない。

けれど、先ほどから何度も視線を感じる。一度ではない。断続的に、誰かがこちらを見ている感覚が続いていた。

私は立ち上がって、窓に近づいた。

カーテンを少しだけめくって、外を確認した。

通路には、誰もいなかった。

街灯の光に照らされて、コンクリートの地面がぼんやりと見えるだけだった。

おかしいな、と思いながら、カーテンを閉じた。

席に戻って、食事を続けた。

視線は、まだ、感じていた。

 

 


 

 

その週の土曜日、私は防犯対策として、スマホを使ったカメラアプリを試してみることにした。

使っていない古いスマホがあったので、それを充電して、玄関のほうに向けて置いた。録画モードにして、留守中の部屋を記録してみようと思った。私自身は、友人の結婚式に出るため、昼過ぎから夜まで家を空ける予定だった。

夜の十時過ぎに帰宅して、録画を確認した。

何時間分もある動画を早送りしながら見ていった。

ずっと、何も起きていなかった。

誰も来ていない。

当然だ、と思いながら、それでも最後まで確認した。

そして、午後六時四十二分の映像で、私は手を止めた。

外がすでに暗くなっている時間帯だった。

部屋の中は電気が消えていて、ほとんど真っ暗だった。玄関に向けたスマホのカメラは、リビングのほうもわずかに映していた。

その暗がりの中に、何かが映っていた。

 

 


 

 

窓のそばだった。

私が毎晩、食事をしているテーブルのすぐ近く。

そこに、人の形をした黒い影が、立っていた。

カーテンの内側だった。

外からではなかった。

部屋の中に、誰かが、立っていた。

しかも、こちらを向いていた。

正確に言うと、カメラのほうを見ていた。

映像の中で、その影は、ほとんど動かなかった。微動だにせず、じっとカメラのほうを見続けていた。

私は動画を何度も巻き戻して、見返した。

午後六時四十二分から、六時四十八分まで、およそ六分間。

その影は、ずっとそこにいた。

そして六時四十九分になった瞬間、映像の中から、ふっと消えた。

部屋の中、どこにも、影は残っていなかった。

 

 


 

 

警察に通報することも考えた。

けれど、すぐに思い直した。

通報して、警察が部屋を調べたとして、何が残っているというのだろう。侵入した跡もない。盗まれたものもない。ただ、動画に映り込んだ「影」があるだけだ。

私は動画を何度も見返した。

見れば見るほど、確信するようになっていった。

あれは、人ではない。

人間がああやって、六分間も微動だにせずに立ち続けることは、できない。

瞬きもしない。

呼吸もしていないように見える。

体の輪郭はあるのに、顔の位置に、顔がない。

 

 


 

 

翌日、私はカーテンを遮光カーテンに買い替えた。

それから、毎晩、就寝前に部屋の隅々まで確認する習慣をつけた。クローゼットの中、ベッドの下、カーテンの裏。誰もいないことを確認してから、眠るようになった。

それでも、視線を感じる夜はあった。

特に、食事をしているときに。

窓のほうを見ても、遮光カーテンに遮られて、外は見えない。

けれど、視線は感じる。

どこから見られているのか、わからないまま、毎晩を過ごしている。

 

 


 

 

最近になって、一つだけ、気づいたことがある。

先日、当時の録画データを、久しぶりに見返したときのことだ。

あの「影」が映っている映像を、何度目かになるだろう、最初から最後まで、もう一度確認した。

そして、ある違和感に気づいた。

私が帰宅する前、六時四十九分に、影は消えた。

その後、夜の十時過ぎまで、部屋の中には誰も映っていなかった。

十時十七分に、私が玄関のドアを開けて、部屋に入ってくる。

電気をつけて、荷物を置いて、リビングのほうへ歩いていく。

カメラはその様子を、ずっと撮り続けていた。

 

私は動画の中で、リビングに座った。

テーブルの前に座って、スマホをいじっている。

普通の、帰宅後の私の姿だった。

 

ただ、一つだけ、おかしなことがあった。

 

カメラに映っている私が、

 

じっと、

 

カメラの方を、見ていた。

 

私は、自分がそんなことをした記憶はない。

けれど、映像の中の私は、十分ほどの間、

表情一つ変えずに、カメラを見つめ続けていた。

 

 

あの夜、私は、ずっとスマホをいじっていたはずだった。

 

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