松浦さんとは、川崎駅から少し歩いたところにあるファミレスで会った。
私のSNSに「聞いてほしい話がある」とDMが来たのが先月の終わり。怪談を集めているとそういう連絡はたまにあって、会ってみると夢の話だったり、友達の友達の話だったりすることがほとんどだ。だからあまり期待はしていなかった。
約束の19時より少し早く着くと、窓際の席にもう彼はいた。29歳。物流会社で配車の仕事をしているという。紺のウインドブレーカーに黒いリュック、どこにでもいそうな人だった。
テーブルの上に、2つの物が置いてあった。
4つ折りにされたA4の紙。それと、ホームセンターで売っているような黄色いメジャー。
「これ、あとで使うんで」
私の視線に気付いて、松浦さんはメジャーを自分の手元へ引き寄せた。
「最初に言っときますけど、これ、終わった話じゃないんですよ」
ドリンクバーのコーヒーに口をつけて、彼は話し始めた。
以下は、そのとき録音した音声をもとに、なるべく彼の言葉のまま書き起こしたものだ。
2年前の春に異動が決まって、こっちに来たんです。前は群馬にいて。
会社が家賃の半分出してくれるんで、上限が決まってたんですよ。7万まで。それで駅から徒歩12分、築30年くらいの鉄筋のマンションの3階、1Kで5万4千円。相場より1万5千円くらい安かった。
いや、もちろん聞きましたよ。事故物件じゃないですよねって。
担当してくれた不動産屋の、小山くんっていう、たぶん僕より年下の子が、タブレットで何か確認して「告知事項はないです」って。安いのは駅からの坂がきついのと、エレベーターがないからだって。実際に坂はきつかったし、エレベーターもなかった。だから納得したんです。
部屋は301号室でした。廊下のいちばん奥、角部屋。
内見のとき、なんか狭いなとは思ったんです。間取り図だと洋室が7.5帖ってなってたんですけど、ぱっと見そんなにない気がして。でも空っぽの部屋って、広く見えたり狭く見えたり、よくわかんないじゃないですか。日当たりはいいし、角部屋だから隣は片側だけだし。その場で決めました。
入居した日に、ひとつ気付いたことがあって。
西側の壁。角部屋なんで、そっちの壁の向こうは外なんですよ。外階段がある側。その壁の、ちょうど目の高さくらいのところに、養生テープが貼ってあったんです。緑色の、5センチくらいに千切ったやつ。
マジックで「ここ」って書いてありました。
前の人がカレンダーかなんか掛けてた目印かなと思って、剥がしました。剥がしたら、下に小さい穴があって。画鋲の穴です。それくらいの。
クロスの張り替えもしてないのかよ、って、そのときはそれだけでした。
最初の1か月くらいは、何もなかったと思います。思います、っていうのは、あとになってあれもそうだったのかなっていうのが、いくつかあるからで。
たとえば、夜中に布団の中で目が覚めると、部屋の空気がちょっと動いてる。窓は閉まってるのに、顔の左側だけ、ふっと風が当たる。僕、西の壁のほうを頭にして寝てたんですけど。
あと、匂い。
仕事から帰ってきてドアを開けると、一瞬だけ、古い畳の匂いがするんです。湿ってて、ちょっと甘ったるい。じいちゃんちの仏間の匂い。うちフローリングなんですけどね。換気扇回してるうちに消えるんで、下の階から上がってくるのかなって。
はっきりおかしいと思ったのは、5月の連休明けです。
夜の1時くらいにトイレに起きて、戻ってきて布団に入ったら、壁の向こうで音がしたんです。
ざり、って。
畳の上で、人が寝返りを打つ音。布が擦れて、体の重さが移る。すぐ耳元で、壁1枚挟んだところで。
最初は隣だと思いました。でも僕の部屋、角部屋なんですよ。隣の302は反対側、東の壁の向こうで。西の壁の向こうは、外階段のはずなんです。
外階段で誰か寝てるのかと思って、スウェットのまま見に行きました。
誰もいませんでした。コンクリの階段に、蛾が1匹止まってるだけで。
で、そのとき、階段の踊り場から自分の部屋の窓を見たんですよ。斜め横から見る感じになるんですけど。
変だったんです。
窓の端から、建物の角までが、長い。
僕の部屋の窓って、西の壁ぎりぎりに寄ってるんですよ。部屋の中から見ると、窓枠の端から壁まで30センチもない。なのに外から見ると、窓の端から建物の角まで、大人が1人立てるくらいの幅がある。
壁の厚みかなと思いました。鉄筋だし、分厚いんだろうって。
でも気になって、次の休みにメジャーを買ってきたんです。
(ここで松浦さんは、テーブルの上のメジャーを指で軽く叩いた)
部屋の中の、東の壁から西の壁まで。2メートル54でした。
7.5帖なら、縦か横のどっちかが3メートル近くないとおかしいらしいんです。調べたら。縦も測ったけど、そっちは合ってて。
横だけ、40センチくらい足りない。
それから外に出て、廊下の側からも測りました。302のドアから僕のドアまでの間隔と比べると、僕のドアから突き当たりまでが、やっぱり長い。部屋の中と外とで、合わないんです。
40センチって、人が横向きになれば挟まるくらいはあるんですよ。
そのときは、まだ理屈で考えてました。配管とかダクトとか、そういうのが通ってるんだろうって。古い建物だし、あとから壁を作って部屋を仕切り直したとか。
ただ、配管は寝返り打たないですよね。
夜の音は、そのあとも続きました。毎晩じゃないです。3日に1回とか。
寝返りのほかに、たまに、爪で掻くような音もしました。こり、こり、って。ネズミだと思おうとしたんですけど、ネズミにしてはゆっくりすぎるんです。1回掻いて、しばらく止まって、また1回。考えながら掻いてる感じ。
それと、呼吸。
これは気のせいかもしれないって、ずっと思ってました。壁に耳をつけたわけじゃないんです。つけられないですよ、そんなの。でも静かな夜に布団の中にいると、自分の呼吸と、ずれた呼吸が聞こえる。すう、と、はあ、の間隔が、僕よりちょっと長い。僕が息を止めると、向こうも止まる。
……ほんとに止まるんですよ。
6月の終わりに、会社の飲み会がありました。けっこう飲んで、終電で帰って、あの坂を上って。部屋に入ったのが1時前です。
僕、1人暮らし長いんで、ただいまとか言わないんですよ。言う相手いないし。でもその日は酔ってたから、たぶん、言ったんです。靴を脱ぎながら、ただいまーって。
真っ暗な部屋の、奥から。
「おかえり」
って。
すごく小さい声でした。かすれてて、男か女かもわからない。テレビもスマホも消してたし、声がしたのは部屋の奥の、西の壁のほうからでした。
壁のすぐ内側で、口を壁紙にくっつけて喋ったら、ああいう声になると思います。
酔いは一発でさめました。電気もつけずにそのまま部屋を出て、コンビニで朝まで立ち読みして。
翌日、不動産屋に電話しました。小山くんが出て、音がするんですけどって言ったら、最初は「上の階か、配管の音ですかね」って、マニュアルどおりの答えで。
3階が最上階なんですよって言いました。それから、西の壁の向こうに何があるのか、って聞いたんです。
小山くん、黙っちゃって。
電話の向こうで、ほかの社員の話し声とか、コピー機の音とかが聞こえてて。けっこう長かったです。10秒くらい。
で、急に声が小さくなって、
「……テープ、剥がしちゃいました?」
って。
何のことかすぐにはわからなくて、何のテープですかって聞き返したら、「いえ、あの、すみません、確認して折り返します」って、切られました。
折り返しは、来ませんでした。
テープって、あれしかないですよね。入居した日に剥がした、「ここ」って書いてあったやつ。
帰って、壁を見ました。
穴が、大きくなってたんです。
最初は画鋲の穴くらいだったのが、そのときは鉛筆がぎりぎり入るくらいになってて。穴の縁のクロスが、内側に向かってめくれてました。こっちから押したんじゃなくて、向こうから引っ張った跡です。
セロテープで塞ぎました。何重にも。
次の日の朝、テープは床に落ちてました。
そのころ、ゴミ出しのときに302の人に会ったんです。60代くらいの女の人で、それまで挨拶くらいしかしたことなかった。
向こうから話しかけてきて。「301の方よね」って。
夜うるさかったですか、すみませんって、先に謝りました。こっちでこれだけ音がしてるんだから、向こうにも何か聞こえてるだろうと思って。
そしたらその人、首を振って。
「ううん、いいのよ。お友達と一緒に住んでらっしゃるんでしょう」
1人ですって言ったら、あら、って。
「いつも夜中、2人でお話ししてるじゃない。壁越しに聞こえるのよ。片っぽの方は、ずいぶん声が小さいけど」
……僕、夜中に誰かと話したことなんか、1回もないんです。電話もしないし。
その人、ゴミ袋をネットの下に押し込みながら、
「前の方のときも、そうだったわよ」
って言って、部屋に戻っていきました。
そこから先は、自分でもどうかしてたと思うんですけど。
ある晩、スマホのライトで、穴の中を照らしてみたんです。夜中の2時くらい。寝返りの音が止んで、しばらく静かだったときに。
顔を近付けたわけじゃないです。穴の真正面に立たないようにして、斜めからライトを当てました。
中は、真っ暗でした。光が奥に当たって跳ね返ってくる感じがない。ただ、黒い。
穴から、空気が出てました。
ぬるかったです。人の体温くらい。
それが一定のリズムで、出たり止まったりしてて。手の甲をかざしたら、ふう、ふう、って当たるんですよ。
あの畳の匂いがしました。湿った、甘い匂い。それと、昔のおじさんがつけてたポマードの匂いが混じってて。
その、ふう、ふう、が、だんだん強くなってきて。
穴の近くに、何かが寄ってきてるんだって、わかりました。
向こうから、穴を覗こうとしてる。
ライトを消して、布団を頭からかぶりました。寝られるわけないんですけど、そのまま朝まで動けなかったです。
壁の向こうで、クロスに何かが擦れる音がずっとしてました。ざり、ざり、って。顔を押し付けて、穴に目の位置を合わせてる音でした。
引っ越そうと決めました。当たり前ですよね。
ただ、会社が家賃補助を出してる関係で、勝手に解約できなくて。総務に話を通して、次の部屋を探して、引越し業者を押さえて。最短で2週間って言われました。
その間、半分くらいは大学の同期の岩井ってやつの家に泊めてもらってました。岩井は武蔵小杉に住んでて、話したら大笑いして、「見せろよ」って。
それで一度、2人で部屋に行ったんです。土曜の昼間です。着替えを取りに行くついでに。
岩井は面白がって西の壁の前に立って、穴を見て「ちっさ」って笑って。それから、壁を拳でノックしたんです。
こん、こん。
「空洞だな、これ。石膏ボードだわ。後ろなんもねえよ」
そう言った直後でした。
こん、こん。
壁の中から、返ってきたんです。
でも岩井が叩いた場所じゃなくて、もっと下。膝くらいの高さから。
岩井は笑った顔のまま固まってました。僕のほうを見て、お前なんかした?って顔して。僕は岩井の後ろにいたんで、何もできないんです。
こん、こん。
今度は天井の近く。
こん、こん。
クローゼットの中。
こん、こん。
僕らの、すぐ後ろ。東側の、302との境の壁から。
動いてたんです。壁の中を。部屋をぐるっと、僕らを囲むように。
東の壁の向こうって、302なんですよ。人が住んでる部屋なんです。そこから、ノックが返ってきた。
岩井は何も言わずに靴を履いて出ていきました。僕も着替えなんか持たずに後を追いました。
階段を降りながら、岩井が一言だけ、「あれ、部屋ん中の壁、全部にいるぞ」って言ったのを覚えてます。
引越しの前の晩は、あの部屋で寝るしかありませんでした。
岩井の家に彼女が来るとかで泊まれなくて。ビジホも考えたんですけど、翌朝8時に業者が来るのに、荷物を置いて部屋を空けるのが嫌で。留守の間に、何かされる気がしたんです。我ながら、おかしな理屈ですけど。
電気は全部つけて寝ました。テレビもつけっぱなしで。布団は、西の壁から一番遠い東側に寄せて敷きました。西の壁からは1メートル以上離れてたはずです。東の壁との間にも、コンセントがあるんで30センチくらい空けて。
たぶん、3時過ぎです。
目が覚めました。
テレビが消えてて、電気も消えてました。停電かと思ったんですけど、廊下の常夜灯の明かりがドアの下の隙間から漏れてたんで、たぶん違う。
右腕が、冷たかった。
何かに触れてたんです。右腕の、肘から肩にかけて。
壁でした。
30センチ空けてたはずの、東の壁が、腕にぴったりついてる。
寝ぼけて転がったんだと思いました。そう思って体を起こそうとしたら、左の肩にも、何か当たったんです。
左側も、壁でした。
西の壁です。
1メートル以上、離れてたはずの。
両側から、壁に挟まれてたんです。布団1枚分の幅しかない隙間に、僕が横になってる。
暗くて、目が慣れてなくて、よく見えなかった。でも手で触ったらわかるんです。右も左も、クロスのざらざらした感触があって。
左の壁は、ぬるかった。
クロスの向こうで、何かが同じように横になってる。僕と同じ向きで、同じ姿勢で、壁1枚挟んで、ぴったりくっついて寝てる。その体温が、壁越しに伝わってくるんです。
左の耳の、すぐ横に、あの穴がありました。
穴から、ふう、ふう、って、息が当たってました。
それで、声がしたんです。
穴から。
「こっちは、ひろいねえ」
……。
嬉しそうでした。
すごく、嬉しそうな声でした。
それから、穴から指が出てきたんです。
鉛筆くらいの穴ですよ。そこから、細い、爪の伸びた指が1本、にゅっと出てきて。第2関節まで出たところで曲がって、何かを探して動いてました。僕の耳のほうに。
そこから先は、あんまり覚えてないです。
気付いたら、裸足で外階段の下にいました。スマホも財布もなくて、明け方まで自販機の横にしゃがんでました。
部屋を見上げたら、窓は真っ暗でした。
窓の横の、あの大人1人分の幅の外壁が、前より広くなってた気がします。
朝、業者の人と一緒に部屋に戻りました。
布団は、東の壁から30センチ離れたところに、僕が敷いたままありました。西の壁とは1メートル以上離れてました。挟まれてなんかいない。
ただ、西の壁の穴の周りのクロスが、人の形に、ほんの少しだけへこんでたんです。
肩の位置と、頭の位置。横向きに寝た人が、内側からもたれかかったくらいの。
業者の人に、ここ、へこんでますよねって聞いたら、若いバイトの子が見て、「あー、古いクロスあるあるっすね」って言ってました。
荷物を全部出して、最後に部屋を見回したとき、一応メジャーで測りました。東の壁から、西の壁まで。
2メートル31でした。
最初に測ったときは、2メートル54だったのに。
(松浦さんはここで話を切って、コーヒーのおかわりを取りに行った。戻ってきた彼は、席に座る前に、ファミレスの窓際の壁を横目で見た。私も見た。何もない、ただのクリーム色の壁だった)
新しい部屋は、今住んでるとこですけど、鶴見のほうです。
内見のとき、真っ先にメジャーで測りました。小山くんのとことは違う不動産屋で、担当の人に変な顔されましたけど。ちゃんと、間取り図どおりでした。
それから、あの301が、また募集に出てるのを見つけたんです。引っ越して半年くらいしたとき、なんとなくポータルサイトで検索したら。
間取り図は同じやつでした。家賃も同じ。
洋室の広さだけ、変わってました。
7.5帖が、6.8帖になってたんです。
不動産屋が、測り直したんですよ。たぶん。
小山くんのことも気になって、その店に電話しました。そしたら、もう辞めてますって。僕が引っ越してすぐに。
……で、ここからが今の話なんですけど。
(松浦さんは4つ折りの紙を広げた。今の部屋の、契約のときの間取り図のコピーだった。洋室の横幅のところに、ボールペンで小さな数字がいくつも書き込まれている。日付と、長さ)
月に1回、測ってるんです。それが習慣になっちゃって。
ずっと同じでした。1年半くらい、1センチも変わらなかった。
先月、3センチ短くなってました。
今月は、7センチです。
……測り間違いかもしれないですよ。メジャーがたわんでたとか、床に物があったとか。僕も、そう思いたいです。
でも先週、残業で遅くなって、帰ったのが12時過ぎで。
僕、あれからずっと、ただいまって言わないようにしてるんです。絶対に。ドアを開けるときは、唇を噛むくらいにして。
その日も言いませんでした。
黙ってドアを開けて、電気をつけようとスイッチに手を伸ばしたら。
奥の、壁のほうから。
「おかえり」
……言ってないんですよ、僕。ただいまって。
なのに、おかえりって。
待ってたみたいに。
(松浦さんは黄色いメジャーを手の中で転がしながら、しばらく黙っていた。それから、少し笑った)
今日これ持ってきたの、別に意味ないんです。家に置いとくと、なんか、測りたくなっちゃうんで。
測らなければ、狭くなってるかどうか、わかんないじゃないですか。
松浦さんとは、それきりだ。
記事にしていいかを確認するために、先週DMを送った。既読はついたが、返信はない。
これを書いているのは、私が6年住んでいる1Kの部屋だ。
書き起こしの途中で、賃貸契約の書類を引っ張り出した。間取り図には、洋室6帖とある。
メジャーは、引っ越しのときに使ったものがまだ机の引き出しにあった。
壁から壁まで測った。
書類から計算した数字と、4センチ違っていた。
4センチなら誤差だと思う。私の測り方が雑だっただけかもしれない。建物なんて、もともとそういうものなのかもしれない。
だから、もう測らないことにした。
松浦さんの言うとおりだ。測らなければ、わからない。
ひとつだけ、書いておく。
この原稿を書いているあいだ、私は1度も、ただいまと言っていない。この部屋に帰ってきてから、ずっと。
さっきコンビニから戻って、鍵を開けたときもそうだった。
黙ってドアを開けた。
廊下の電気をつける前に、奥の、ベッドを寄せてある側の壁から、聞こえた気がした。
かすれていて、男か女かもわからない声で。
おかえり、と。

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