引っ越したのは去年の秋だった。都内の築30年を超えるアパートで、家賃は同じ広さの相場より一万円ほど安かった。入居の決め手は、仲介業者が「ここは静かですよ」と言ったことだ。
確かに、最初の数週間は静かだった。
違和感を覚えたのは、一ヶ月ほど経った頃だ。夜中にふと目が覚めると、隣の部屋からかすかに物音がする。テレビの音ではない。誰かが部屋の中を歩く足音と、水道を使う音。
「隣の人も夜更かしなんだな」
そう思うだけで、気にも留めていなかった。壁が薄いアパートなのは最初から分かっていたし、生活音が聞こえるのは仕方ない。
変だと思い始めたのは、年末のことだ。
ゴミ出しに朝早く出た時、隣の部屋のドアに「契約終了のご案内」という紙が貼られているのを見た。差出人は管理会社だった。隣の住人は引っ越していったらしい。
そうか、隣は空き部屋になったんだな。
少し寂しいな、と思ったのを覚えている。
——それでも、音はやまなかった。
最初は気のせいだと思った。でも、確かに聞こえる。夜中の物音。誰かが歩く足音。水道の音。壁の向こうから、変わらず聞こえてくる。
不動産屋に電話をかけた。「隣に新しい人が入ったんですか」と聞くと、電話口の担当者はしばらく黙った後、こう言った。
「いえ、まだ募集中です。一月現在、空室ですよ」
電話を切ってから、リビングの壁をじっと見つめた。
その夜、もう一度耳をすませた。いつも通り、壁の向こうから物音がする。ドアの開け閉め、廊下を歩く足音、シャワーを浴びる音。普通の、誰かの生活の音。
管理会社に直接連絡して、隣の部屋を見せてもらえないか頼んだ。次の週末、担当者と一緒に隣の部屋に入った。部屋は完全に空だった。家具もなく、照明も外されていた。壁も床も、綺麗な状態だった。
「しばらく誰も住んでいません」
担当者は申し訳なさそうに言った。
「もしかして、水道管の音とかでしょうかね。古い物件ですと、配管が鳴ることがあるので」
私は曖昧に頷いた。でも、あれは配管の音なんかじゃない。人が歩く足音、ドアの開け閉め、そういう音だった。
その日から、意識して「観察」を始めた。
すぐに、あることに気づいた。
隣の部屋から聞こえる生活音は、私の生活音と、ぴったり重なっている。
私がトイレに立つと、隣も立つ。私がシャワーを浴びると、隣もシャワーを浴びる音がする。私が夜中に水を飲みに行くと、隣の台所からも水を出す音がする。
偶然にしては、タイミングが合いすぎていた。
ある夜、私は試しにベッドから出ずにじっとしていた。呼吸も殺して、動かないようにした。
壁の向こうも、静かになった。
一時間ほど、そうしていた。互いに、何も音を立てなかった。
私は静かにスマホを手に取った。ボイスメモを起動して、録音ボタンを押した。枕元に置いて、そのまま眠った。
朝、再生した。
最初は私の寝息だけが聞こえる。それが一時間ほど続いた後——
私の寝息と、まったく同じタイミングで、別の呼吸音が混ざり始めた。
壁の向こうから聞こえてくる音ではなかった。もっと近くから聞こえる音だった。
マイクの、すぐ近くから。
その日から、私は部屋で音を立てないようにしている。シャワーも浴びない。トイレは我慢する。水も飲まない。ただベッドの中で、息を潜めている。
でも、先週、気づいてしまった。
私が息を止めていた時間。本当に、私は息を止めていただろうか。
壁の向こうが静かだったあの時間、私は、誰の呼吸に合わせて息をしていたんだろう。

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