俺の地元には、変な噂がある。
県境にある、古い木造の橋。
その橋は、夜の十一時ちょうどに渡ると、向こう側に行けないらしい。
そう言うと、だいたい笑われる。
「行けないって、どういうこと?」
うまく説明できない。
「渡っても、向こう岸に着かない」
そう言うしかない。
実際、渡ったやつを何人か知っている。
俺の中学の先輩は、酒を飲んだ帰りに、試しに渡ってみたことがあるらしい。
十一時五分くらいから渡り始めた。
橋は長くない。
五十メートルもないくらい。
普通に歩けば、一分で渡り切る。
先輩は、五分かけて渡ったと言っていた。
別にゆっくり歩いたわけじゃない。
普通に歩いていたのに、なかなか向こう岸に着かなかった。
振り返ると、ちゃんと歩いてきた道はそこにある。
向こう岸もちゃんと見えている。
なのに、歩いても歩いても、橋の真ん中あたりから、先に進まない。
そんな感覚だったという。
「五分経って、急に向こう岸に着いた。時計見たら、十一時十分だった」
先輩は、そう話していた。
「何か、変なもん見た?」
俺が聞くと、先輩は首を振った。
「何も見てない。ただ、歩くのに時間かかっただけ」
もう一人、同級生の女子が、渡ろうとしたことがある。
彼女の場合は、途中で引き返した。
「怖くなってやめた」
そう言っていた。
「何が怖かったの?」
「音」
彼女は、顔をしかめて続けた。
「橋の下から、子供の声がずっと聞こえてた」
橋の下は、川だ。
夜に子供が遊んでいるはずがない。
「なんて言ってた?」
「わからない。でも、笑ってた。何人もで」
彼女は、それ以上は話さなかった。
地元の大人に聞いても、誰もはっきりしたことは言わない。
「昔、あの橋で何かあったらしい」
それくらいしか出てこない。
図書館の郷土資料を調べたこともあった。
戦前の古い記録に、少しだけ、その橋についての記述があった。
「夜間、児童の橋への立ち入りを禁ずる」
理由は書かれていなかった。
俺自身は、一度も渡ったことがなかった。
怖いというより、面倒くさかった。
わざわざ夜中に、あんな山奥の橋まで行く気にならなかった。
でも、去年の夏、機会があった。
大学の友達を地元に連れてきて、肝試しみたいなノリで、皆で行こうという話になった。
車で三人。
夜の十時半頃に、橋に着いた。
橋の前に立って、時計を確認した。
十一時になるまで、まだ三十分あった。
皆で、橋の手前で、煙草を吸いながら待った。
誰かが言った。
「まじで何も起きなかったら、つまんないよな」
別の一人が笑った。
「起きないだろ、普通に」
俺は、少しだけ、嫌な予感がしていた。
でも、言わなかった。
十一時ちょうど。
友達の一人が、「じゃ、行くわ」と言って、橋を歩き出した。
俺は、橋の手前に立って、見送った。
友達は、普通に歩いていた。
少しずつ、遠くなっていく。
橋の真ん中あたりで、一度こちらを振り返って、手を振った。
俺も手を振り返した。
それから、また前を向いて、歩き出した。
友達の背中を見ていた。
おかしいと思ったのは、一分くらい経ってからだった。
友達が、前に進んでいなかった。
歩いているのに、橋の真ん中から、一歩も前に進んでいなかった。
俺は、声をかけようとした。
でも、声が出なかった。
隣にいた、もう一人の友達が、小さくつぶやいた。
「あれ、なんか、おかしくね?」
橋の真ん中で、歩き続ける友達。
足は動いている。
けれど、進まない。
時間にして、二分くらいだっただろうか。
急に、友達が、くるっとこちらに振り返った。
そして、走って戻ってきた。
橋の手前まで戻ってきた友達は、息を切らして言った。
「ごめん、無理だわ」
顔が、真っ青だった。
車の中に戻って、俺たちは無言だった。
友達は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりとつぶやいた。
「橋の向こう側に、人がいた」
俺は、友達の顔を見た。
友達は、前を向いたまま、続けた。
「橋の出口の、すぐ先に、人が立ってた。こっち見てた」
「近くで見えた?」
「うん。俺、結構前まで進んだと思ってた。でも全然前に進めてなくて、気づいたらそいつが、ずっと向こう岸にいて、俺のこと見てた」
俺は、もう一度、橋のほうを見た。
橋の向こう岸には、街灯が一つもなかった。
真っ暗で、何も見えなかった。
「どんな顔だった?」
友達は、少し考えてから、答えた。
「俺と、同じ顔だった」
車の中で、しばらく、誰も口をきかなかった。
運転席に座っていたもう一人の友達が、エンジンをかけた。
「帰ろう」
誰も反対しなかった。
俺たちは、地元の市街地まで戻って、深夜のファミレスに入った。
明るい店内で、熱いコーヒーを飲んでいるうちに、少しずつ落ち着いてきた。
友達は、橋で見たものについて、もう少し詳しく話してくれた。
「最初は、ただの人影にしか見えなかった」
「歩いても進まなくなってから、だんだん、そいつの顔が見えるようになってきた」
「遠いのに、顔だけが、はっきり見えた」
「俺の顔だった。歳も、髪型も、服装も、全部、俺と同じだった」
「そいつが、何か言ってた?」
俺が聞くと、友達は首を振った。
「何も言わなかった。ただ、笑ってた」
友達は、深夜二時過ぎに、自分の家に送ってもらって、別れた。
俺と、もう一人は、俺の実家に泊まることになった。
布団を並べて、電気を消した。
でも、眠れなかった。
天井を見ながら、さっきの話を、何度も反芻していた。
隣で、もう一人がぼそっと言った。
「あのさ」
「ん?」
「さっき、橋のところで、変なこと気づいたんだけど」
俺は、体を横に向けた。
「なに?」
「あいつが、橋の真ん中で、こっちに振り返って、手を振ったじゃん」
「振ったな」
「あれ、手、振ってた?」
俺は、起き上がった。
「振ってたよ。俺も振り返した」
友達は、布団の中から、俺の顔をじっと見ていた。
「俺、あいつの手が動くの、見えなかった」
「え?」
「あいつ、こっち向いて立ってたけど、手は、ずっと下に垂らしたままだった」
「嘘だろ」
「嘘じゃない。俺、ずっと見てた」
「じゃあ、誰に手を振り返したんだよ、俺」
友達は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「あいつじゃない誰かが、橋の上で、お前に手を振ってたんだと思う」
俺は、寒気がした。
思い出していた。
橋の上にいた友達の、少し先。
橋の真ん中あたりに、確かに、人影があったような気がする。
でもその時は、友達の姿しか見ていなかった。
全部、友達だと思っていた。
翌朝、俺たちは東京に戻った。
友達は、あれ以来、地元の話を一切しなくなった。
橋に行った夜のことも、互いに触れなくなった。
俺も、そのまま忘れようとしていた。
そもそも、怖い話は、地元を離れれば薄れていく。
都会にいる限り、関係ない話だ。
そう思っていた。
三ヶ月ほど経った、ある秋の夜のことだった。
俺は、自分のアパートで、一人で寝ていた。
真夜中、ふと、目が覚めた。
何かの気配を感じて、目を開けた。
部屋は、真っ暗だった。
カーテンの隙間から、街灯の光が、うっすら漏れていた。
ベッドの足元に、誰かが立っていた。
体の輪郭だけが、ぼんやりと見えた。
顔は、暗くて、よく見えなかった。
動かなかった。
ただ、じっと、俺のほうを見下ろしていた。
俺は、動けなかった。
声も出なかった。
どれくらいの時間だったか、わからない。
だんだん、目が闇に慣れてきた。
相手の顔が、少しずつ、見えるようになってきた。
俺と、同じ顔だった。
そいつは、笑っていた。
歯を見せて、大きく笑っていた。
それから、ゆっくりと、口を開けた。
何か、言おうとしていた。
「ただいま」
そう言った。
次の瞬間、そいつは消えた。
俺は、飛び起きて、電気をつけた。
部屋の中には、誰もいなかった。
時計を見ると、午前三時だった。
もう、眠れなかった。
朝まで、電気をつけたまま、部屋の中を見つめていた。
それから、俺は実家に帰っていない。
地元の橋のほうには、もう二度と、行きたくない。
けれど、最近、少し気になっていることがある。
「ただいま」と言ったあいつは、
俺の家に、入ってきた。
「ただいま」と言えるのは、
家に帰ってきた者だけだ。
そして、俺は、
あの夜から一度も、
「おかえり」と、返事をしていない。

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