知人から聞いた話を、少しだけ脚色して書く。
話を聞かせてくれたのは、大学時代の友人で、仮に水島としておく。彼の母方の実家が、東北のとある村にあるのだという。私も名前を出すつもりはないが、県名すら書かないでほしいと水島から念を押されているので、その通りにする。
以下は、彼が幼い頃の記憶に基づく話だ。
水島の母方の実家は、山の中腹にある集落だった。二十戸ほどの小さな村で、住んでいるのはほとんどが高齢者だったという。水島は小学校に上がる前の夏、両親に連れられて、その村に帰省したことがあった。
祖父母の家は、村の中でも一番山に近い場所に建っていた。木造の、やけに天井の低い平屋だった。玄関を入ると土間があり、奥には囲炉裏のある広い座敷があった。水島にとっては、何もかもが新鮮で、まるで昔話の世界に入り込んだような気分だったらしい。
帰省したのは、八月の中旬だった。
その年、村では「蓋の祭り」という行事が行われることになっていた。
三十年に一度しか行われない、特別な祭りなのだと、祖母が教えてくれた。
水島は興奮した。
初めて聞く名前の祭りだった。どんなお神輿が出るのか、屋台はあるのか、花火は上がるのか。幼い彼は、祖母にいろいろと質問した。
祖母は、少し困ったような顔で笑っていた。
「ああいう祭りじゃねぇんだ」
そう言って、それ以上は何も教えてくれなかった。
祭りの前日、村の広場に、大人たちが集まっていた。
水島も、父親に連れられて見に行った。
広場の中央に、大きな石があった。
直径二メートルほどの、平たい円形の石だった。
その石の上に、木製の蓋のようなものが載せられていた。
蓋は、石よりもひとまわり大きく、黒く塗られていた。表面には、何か文字のようなものが、ぐるりと一周、彫り込まれていた。漢字ではない。水島には読めなかった。
大人たちは、その蓋の周りを囲んで、何かを話し合っていた。
水島が近づこうとすると、父親が慌てて彼の肩を掴んだ。
「あんまり近づくな」
父親の声は、いつもと違って、少し硬かった。
「なんで?」
水島が聞くと、父親は答えなかった。
ただ、水島の手を引いて、広場から離れた。
祭りの当日、朝から、村全体が静かだった。
いつもなら聞こえる鳥の声も、その日は聞こえなかった。
水島は、祖父母の家の縁側で、祖母と並んで座っていた。
「今日は、ずっと家にいろよ」
祖母は、水島にそう言った。
「外に出ちゃだめ?」
「出ちゃだめだ」
祖母は、普段の優しい顔とは違う、厳しい表情をしていた。
「何時になっても、絶対に外に出るな。誰かが呼んでも、出るな。窓も開けるな。戸も開けるな」
水島は、祖母の言う通りにすると約束した。
昼過ぎ、村のスピーカーから、アナウンスが流れた。
「これより、蓋の祭りを始めます」
それだけだった。
いつもの放送とは違う、低い男の声だった。
水島は、縁側から座敷に引っ込んだ。
障子を閉めた。
家の中は、薄暗かった。電気をつけたいと言ったが、祖母に止められた。
「今日は、電気もつけちゃだめだ」
祖母は、囲炉裏の火だけをぼんやりと灯して、じっと座っていた。
外で、何かの音が聞こえ始めた。
太鼓の音、ではなかった。
もっと低い、地鳴りのような音だった。
家の床が、かすかに震えていた。
水島は、怖くなって、祖母にしがみついた。
祖母は、水島の頭を撫でながら、小さな声で何かを呟いていた。
お経のようにも、子守唄のようにも聞こえた。
地鳴りのような音は、夕方まで続いた。
日が落ちる頃、音はぴたりとやんだ。
村が、また静かになった。
祖母は、しばらく耳をすませていた。
そして、ようやく、囲炉裏の火を大きくして、電気をつけた。
「終わったな」
祖母は、ほっとしたような顔で言った。
水島は、やっと体の力を抜いた。
そのとき、外から、カランコロン、と下駄の音が聞こえた。
誰かが、家の前の道を歩いている。
水島は、縁側の障子を開けようとした。
祖母が、鋭い声で止めた。
「開けるな」
水島は、手を止めた。
祖母は、障子のほうをじっと見ていた。
下駄の音は、家の前で止まった。
誰かが、縁側のすぐ外に、立っているようだった。
「みずしま」
低い男の声が、障子の向こうから聞こえた。
水島は、自分の名前を呼ばれて、ぞくりとした。
知らない声だった。
祖母は、何も言わなかった。
ただ、水島の口を、自分の手で塞いだ。
「みずしま」
もう一度、声がした。
「みずしま」
「みずしま」
障子の向こうから、何度も、水島の名前を呼ぶ声が聞こえた。
声の主は、だんだんと、近くなってきているようだった。
水島は、祖母に抱きしめられながら、目を閉じていた。
しばらくして、声はやんだ。
下駄の音が、また、カランコロンと鳴った。
その音は、遠ざかっていった。
「もう、大丈夫だ」
祖母が、そう言ったのは、夜の九時を過ぎてからだった。
水島は、泣き疲れて、眠ってしまっていた。
翌朝、祖母に聞いた。
「あれは誰だったの?」
祖母は、少しの間、黙っていた。
そして、こう答えた。
「蓋の中から、出てきたお方だ」
「蓋の中って、あの石の?」
「三十年に一度、蓋を開けて、挨拶に来てもらうんだ。そして、また、蓋を閉める」
水島には、意味がわからなかった。
「挨拶って?」
祖母は、水島の顔を見て、少し悲しそうに笑った。
「お前は、名前を呼ばれただろう」
「うん」
「返事しなくて、よかったな」
祖母は、それ以上は教えてくれなかった。
帰省から何年か経って、水島の祖母は亡くなった。
それ以降、水島は、その村には帰っていない。
母親も、もう帰らないらしい。
ただ、一つだけ、水島が気になっていることがある。
彼は、幼い頃、自分の名前を呼ぶ声を聞いた。
低い男の声だった。
その声に、彼は返事をしなかった。
けれど、思い返すと、一つ、どうしても気になることがある。
あのとき、彼の名前を呼んでいた声は、
「みずしま」と、苗字で呼んでいた。
水島は、母方の実家に帰省していた。
その家は、水島家ではなかった。
母親の旧姓の家だった。
あの村で、誰も彼のことを「水島」と呼んだ人間はいなかったはずだ。
祖父母も、両親も、親戚も、みんな彼を下の名前で呼んでいた。
「水島」と呼べるのは、
水島の、父方の、誰かだけのはずだった。

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