去年の冬から、毎晩、午前三時十七分に目が覚めるようになった。
最初は気にしなかった。
ストレスか、睡眠の質が悪いのか、そのくらいに思っていた。
目が覚めて、水を飲んで、また眠る。
それだけだった。
一週間経って、少し気になり始めた。
スマホのアラームを確認する癖がついた。
午前三時十七分。
毎晩、一分のズレもなく、目が覚める。
二週間目に入った頃、目が覚めた瞬間から、部屋の中が少し違う気がするようになった。
うまく説明できない。
空気が、重い。
温度が、低い。
寝る前と、何かが変わっている気がする。
でも、見回しても、何も変わっていない。
窓は閉まっている。
ドアも閉まっている。
誰もいない。
そう確認して、また眠る。
その繰り返しだった。
三週間目のある夜、目が覚めたとき、洗面所の電気がついていた。
俺は、寝る前に必ず電気を消す習慣がある。
確認してから眠った。
なのに、ついていた。
洗面所に入った。
電気を消した。
ベッドに戻った。
次の夜も、また洗面所の電気がついていた。
一ヶ月経った頃、洗面所の鏡が気になり始めた。
理由はわからない。
ただ、目が覚めるたびに、鏡を見るのが怖くなっていた。
ある夜、意を決して洗面所に入り、鏡を見た。
自分の顔が映っていた。
寝癖のついた髪、目の下のくま、それだけだった。
でも、一つだけ、おかしなことがあった。
鏡の中の俺は、少しだけ、遅れて動いた。
最初は見間違いだと思った。
深夜三時に起きたばかりで、目が覚めていないだけだと。
次の夜、また鏡の前に立った。
右手を上げた。
鏡の中の俺も、右手を上げた。
でも、コンマ一秒くらい、遅れた。
左手を上げた。
遅れた。
頭を傾けた。
遅れた。
鏡の前で、三十分立ち続けた。
動くたびに、毎回、少しだけ遅れた。
翌日、友人に話した。
「鏡がラグってるってこと?」
「そう。コンマ一秒くらい」
「それ、目の錯覚じゃないの。睡眠不足とか」
「かもしれない」
そう思うことにした。
でも、その夜から、遅れる時間が長くなっていった。
最初はコンマ一秒だったのが、コンマ三秒になり、一秒になり、三秒になった。
三秒後に、鏡の中の俺が動く。
立っている間、ずっと、鏡の中の俺を見ていた。
あることに、気づいた。
鏡の中の俺は、表情が違う。
俺が無表情でいるとき、鏡の中の俺は、口の端が少しだけ上がっていた。
俺が眉をひそめているとき、鏡の中の俺は、目を細めて笑っていた。
形は、俺の動きを遅れてなぞっている。
でも、表情だけが、違った。
それに気づいてから、鏡を見るのをやめた。
洗面所には入らないようにした。
歯磨きも、台所の流しでやるようにした。
それから一週間、鏡を見なかった。
でも、八日目の夜。
目が覚めたとき、洗面所の電気がついていた。
引き寄せられるように、洗面所に向かった。
入りたくなかった。
でも、足が向かった。
洗面所の前に立った。
電気を消そうとした。
鏡が、目に入った。
鏡の中の俺が、こちらを向いていた。
俺は、ドアのところに立っていた。
鏡の中の俺も、同じ場所に立っていた。
俺は、動いていなかった。
鏡の中の俺も、動いていなかった。
同じだった。
でも、一つだけ、違うことがあった。
鏡の中の俺の、後ろに。
誰かが、立っていた。
背が高い。
細い。
顔が、見えない。
暗くて、見えないのではなかった。
顔の部分だけが、ぼんやりと、白く滲んでいた。
その人は、鏡の中の俺の、すぐ後ろに立っていた。
俺の肩越しに、こちらを覗き込むように、前傾みになっていた。
俺は、振り返った。
部屋には、誰もいなかった。
もう一度、鏡を見た。
鏡の中の俺の後ろに、また、いた。
俺は、洗面所から出た。
部屋の電気を全部つけた。
朝まで、眠れなかった。
翌朝、不動産屋に電話して、引っ越しの相談をした。
今は別の部屋に住んでいる。
鏡は、一枚も置いていない。
午前三時十七分に目が覚めることも、なくなった。
ただ、一つだけ。
引っ越しの日、荷物を運び出しながら、最後にもう一度だけ洗面所に入った。
鏡を見た。
鏡の中の俺が、映っていた。
後ろには、誰もいなかった。
よかった、と思って、背を向けた。
ドアを閉める直前、
鏡の中の俺が、
こちらに向かって、
手を振った。

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