母が入院したのは、去年の春だった。
病気ではなかった。
階段から落ちて、腰の骨を折った。
手術は成功したが、リハビリに時間がかかると言われた。
早くて三ヶ月、長ければ半年。
俺は一人っ子だった。
父は、俺が小学生のときに亡くなっている。
だから、実家には誰もいなくなった。
母が心配で、週に一度は見舞いに行った。
でも、実家のことが気になっていた。
郵便物の管理、電気のブレーカー、庭の植物。
母に頼まれていたことが、いくつかあった。
入院から二週間後の土曜日、俺は実家に戻った。
実家は、駅から歩いて十五分ほどの、古い一軒家だった。
三十年以上、同じ場所に建っている。
俺が生まれる前から、そこにある家だ。
玄関の鍵を開けて、中に入った。
誰もいないはずなのに、家の中が温かかった。
冬の家というのは、人がいなくなると、すぐに冷えるものだ。
でも、温かかった。
「気のせいか」
そう思って、郵便物を確認した。
電気のブレーカーを確認した。
庭に出て、植物に水をやった。
一時間ほどで、用事は終わった。
帰ろうとして、玄関に向かったとき、台所から音がした。
包丁の音だった。
トントン、という、規則正しい音。
誰かが、台所で料理をしている音だった。
俺は、足が止まった。
「誰かいるのか」
声をかけた。
音が、止まった。
しばらく、沈黙が続いた。
俺は、台所に向かった。
誰もいなかった。
まな板の上に、包丁が一本、置いてあった。
俺が実家に入ったとき、台所には包丁はなかった。
確認していた。
その夜、母に電話した。
「実家に包丁出してた?」
「出してないよ。しまってあるはずだけど」
「台所のまな板の上に、一本置いてあった」
母は、少し間を置いてから言った。
「それ、どんな包丁?」
「普通の包丁。柄が黒いやつ」
母の声が、少し変わった。
「捨てて」
「え?」
「その包丁、捨てて。触らないで、新聞紙に包んで、そのままゴミ袋に入れて捨てて」
「なんで?」
「いいから捨てて。絶対に使わないで」
俺は、言われた通りにした。
その夜、母に理由を聞いた。
母は、しばらく黙ってから、こう言った。
「お父さんが使ってた包丁だから」
父が死んだのは、十五年前だ。
首を吊って、自ら命を絶った。
発見したのは、母だった。
それから一ヶ月、実家には行かなかった。
怖かった。
でも、母に頼まれた用事が溜まってきて、また行くことになった。
玄関を開けて入った瞬間、また、温かかった。
今度は、気のせいだと思わなかった。
用事を素早く済ませた。
帰ろうとして、玄関で靴を履いていると、廊下の奥から足音が聞こえた。
スリッパの音だった。
ペタペタという、あの音。
誰かが廊下を歩いている。
俺は、動けなかった。
足音は、だんだん近づいてきた。
廊下の曲がり角のところで、止まった。
曲がり角の向こうに、誰かがいる。
「誰ですか」
声が震えた。
返事はなかった。
俺は、玄関のドアを開けて、外に出た。
振り返らなかった。
次の日、母に電話した。
実家で起きていることを、全部話した。
母は、静かに聞いていた。
話し終えると、母はこう言った。
「そっか」
「怖くないの?」
「怖いけど」
少し間があった。
「あなたのお父さん、ああいう形で逝ったから」
「うん」
「心残りがあるんだと思う」
「何の心残り?」
母は、また間を置いた。
「あなたのことじゃないかな」
三ヶ月後、母が退院した。
俺は実家に帰って、一緒に暮らすことにした。
引っ越してから最初の夜、俺は自分の部屋で眠った。
子供の頃から使っていた、六畳の部屋だ。
深夜、目が覚めた。
部屋の中が、暗かった。
ドアが、少し開いていた。
廊下の暗がりに、誰かが立っていた。
背の高い、細い影だった。
俺は、その影を見た。
影も、こちらを見ていた。
どれくらいの時間、見つめ合っていたかわからない。
やがて、影は廊下の奥に消えた。
翌朝、母に言った。
「昨日の夜、廊下に誰かいた」
母は、味噌汁をよそいながら、こう言った。
「そう」
「怖くないの?」
母は、少し笑った。
「怖いけど。でも、悪いものじゃないと思うから」
「なんで?」
母は、俺の顔を見た。
「あなたがここに帰ってきてから、来なくなると思ってたんだけどね」
「え?」
「あなたがいない間、ずっといたから」
母は、また味噌汁をよそった。
「寂しかったんじゃないかな。あなたのことが心配で、代わりにそこにいたんじゃないかな」
それから半年が経つ。
今も、実家で母と暮らしている。
廊下に影が立つことは、なくなった。
ただ、一つだけ、気になっていることがある。
先週の夜、俺が残業で帰りが遅くなった日のことだ。
深夜に帰宅して、玄関を開けた。
電気がついていた。
母はもう眠っていた。
でも、台所の電気だけが、ついていた。
台所をのぞくと、誰もいなかった。
でも、コンロの上に、鍋が置いてあった。
中に、温かい味噌汁が入っていた。
母に聞いたら、「作ってない」と言った。
俺は、その味噌汁を、飲んだ。
温かかった。

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