同居人

去年の春に引っ越した。

会社の近くに部屋を借りたかったのと、ちょうど更新のタイミングだったのが重なって、前の家を出ることにした。新しい部屋は駅から徒歩八分、築二十二年の2LDK。一人暮らしには広すぎるくらいだったが、家賃が相場より三万円ほど安かった。

不動産屋の担当者は、愛想のいい三十代の女性だった。

「広めのお部屋をお探しとのことで、こちらがおすすめです」

内見のとき、部屋の印象は悪くなかった。南向きで日当たりがよく、収納が多く、キッチンも広かった。前の住人が丁寧に使っていたらしく、壁も床も綺麗だった。

一つだけ、気になることがあった。

洋室が二部屋あるのだが、奥の部屋のクローゼットだけが、やけに冷たかった。

他の場所は普通の室温だった。でも、奥の部屋のクローゼットを開けると、冬の廊下みたいな空気が流れてくる。

「ここ、冷えますね」

担当者に言うと、「古い物件ですと、断熱材の具合でそういうこともありますね」と笑った。

それ以上は気にせず、契約した。

 

 


 

 

引っ越して最初の一週間は、荷解きと仕事で手いっぱいだった。

新しい部屋に少しずつ慣れていった。

奥の部屋は書斎として使おうと思っていたが、荷物を置いただけで、まだほとんど使っていなかった。クローゼットには、季節外れのコートと、使っていないスーツケースを入れていた。

最初に変だと思ったのは、引っ越して十日ほど経った夜のことだ。

夜中の二時頃、トイレに起きた。

廊下を歩いていると、奥の部屋から音がした。

 

かすかな音だった。

何かが、こすれるような音。

スーツケースが倒れたのかと思って、扉を開けて確認したが、何も変わっていなかった。スーツケースも、コートも、置いた通りの場所にあった。

気のせいかと思って、ベッドに戻った。

 

 


 

 

次に気になったのは、一週間後だった。

朝、シャワーを浴びようとして洗面所に入ったとき、鏡が曇っていた。

湯気で曇る、あの白い感じだ。

でも、まだシャワーを浴びていなかった。

前の夜、風呂には入っていた。それから十時間近く経っている。

湯気が残っているはずがない。

手で拭くと、鏡が現れた。自分の顔が映った。それだけだった。

換気が悪いのかと思って、その日から換気扇を一日中回すようにした。

でも、翌朝も、鏡は曇っていた。

 

 


 

 

同じ会社の後輩に話すと、「心霊現象じゃないですか」と笑われた。

「鏡が曇るのは、だいたい湿気か心霊かですよね」

「湿気だよ、多分」

「でも換気扇回してるんでしょ。だったら心霊ですよ、先輩」

冗談だとわかっていたが、少し引っかかった。

 

その夜、俺は奥の部屋を念入りに調べた。

クローゼットを開けて、中を確認した。

スーツケース、コート、それだけだった。

壁を軽く叩いてみた。特に変な感じはしなかった。

床も確認した。

異常はなかった。

でも、やはり、クローゼットの中だけが冷たかった。

指先が、数秒で冷えた。

 

 


 

 

一ヶ月経った頃、俺はその部屋で作業をするようになっていた。

デスクを置いて、夜はそこでパソコンを使う。

ある夜、作業中に、背後が気になった。

振り返ると、クローゼットのドアが少し開いていた。

閉めた覚えがあったが、古い建物なので、自然に開くのかもしれないと思った。

閉め直して、作業を続けた。

 

翌日の夜、また開いていた。

その次の夜も。

その次も。

 

毎晩、クローゼットのドアが、少しずつ開いていた。

 

 


 

 

気持ち悪くなって、クローゼットの中の荷物を全部出した。

スーツケース、コート、奥に入れていた段ボール。

全部出して、中を隅々まで確認した。

壁、床、天井。

何も、なかった。

ただ、やはり、冷たかった。

 

荷物を戻して、ドアをしっかり閉めた。

念のため、ガムテープで留めた。

 

翌朝、ガムテープが剥がれていた。

ドアが、また開いていた。

 

 


 

 

その週末、以前の部屋の近所に住んでいる友人と飯を食った。

近況報告をしていたら、自然と新しい部屋の話になった。

クローゼットのことを話すと、友人は少し真顔になった。

「それ、前の住人に何かあったんじゃないの」

「そんな話、聞いてないけど」

「聞いてないだけで、何かあったかもしれない。事故物件って、告知義務があるやつとないやつがあるから」

「告知義務がないやつは、教えなくていいってこと?」

「自殺とか他殺は告知義務があるけど、孤独死とか病死は、一定の期間が過ぎると告知しなくていい場合があるって聞いたことある」

俺は、その話を聞きながら、洗面所の鏡のことを考えていた。

 

 


 

 

帰宅してから、事故物件を調べられるサイトを開いた。

住所を入力して、検索した。

 

「登録情報はありません」

 

何も出てこなかった。

少し安心した。

でも、完全には安心できなかった。

友人の言っていた通り、登録されていない案件もあるかもしれない。

 

翌日、不動産屋に電話した。

「以前の入居者について、何か教えてもらえますか」

担当者は、少し間を置いてから言った。

「個人情報になりますので、詳細はお伝えできないんですが」

「何かあったのかどうかだけでも」

「特に問題のある退去ではなかったと認識しております」

「じゃあ、長く住んでた人だったんですか」

また、間があった。

「そうですね、かなり長くお住まいでした」

「何年くらいですか」

「正確には申し上げられませんが、長期の入居者様でした」

それ以上は教えてくれなかった。

 

 


 

 

二ヶ月が経った。

クローゼットのことは、もう諦めていた。

毎晩開くのが当たり前になって、逆に気にならなくなっていた。

そのかわり、別のことが気になりだした。

 

部屋に、気配がある。

 

うまく説明できない。

誰かがいるような、でも誰もいないような。

リビングで本を読んでいると、奥の部屋に誰かいる気がする。

奥の部屋で作業していると、リビングに誰かいる気がする。

振り返ると、誰もいない。

でも、気配だけが、ずっとある。

 

一番気になるのは、風呂に入っているときだ。

浴室のドアを閉めて、シャワーを浴びていると、脱衣所に誰かいる気がする。

ガラスの向こうに、人影のようなものが見える気がする。

でも、ドアを開けると、誰もいない。

鏡が曇っているだけだ。

 

 


 

 

三ヶ月目のある夜、仕事から帰ると、奥の部屋の電気がついていた。

消した覚えがなかった。

いや、消した覚えがある。

朝、出かける前に、全部の電気を消したはずだ。

 

でも、ついていた。

 

部屋に入って、確認した。

何も変わっていなかった。

クローゼットのドアが、開いていた。

それだけだった。

 

その夜から、俺は奥の部屋を使うのをやめた。

リビングだけで生活するようにした。

奥の部屋のドアは、常に閉めておくことにした。

 

 


 

 

先月のことだ。

仕事で遅くなって、夜中の十二時過ぎに帰宅した。

玄関を開けると、部屋の中が暗かった。

当たり前だ。

電気を消して出かけたのだから。

でも、何かが違った。

空気が、違った。

誰かがいる、という感覚が、いつもより強かった。

 

リビングの電気をつけた。

誰もいなかった。

台所も、洗面所も、確認した。

誰もいなかった。

 

奥の部屋のドアの前に立った。

ドアの向こうから、かすかに音がした。

 

あの、こすれるような音だ。

引っ越してきた最初の夜に聞いた、あの音だ。

 

「誰かいますか」

 

声をかけた。

音が、止まった。

しばらく待ったが、何も起きなかった。

 

俺は、ドアを開けた。

 

 

電気をつけた。

 

 

誰もいなかった。

クローゼットのドアが、全開になっていた。

 

俺は、クローゼットの前に立った。

中を見た。

スーツケース、コート。

何も変わっていなかった。

 

でも、その夜は、冷たくなかった。

 

 


 

 

翌朝、管理会社に電話した。

クローゼットのドアが毎晩開くこと、部屋が冷えること、音がすること。

全部話した。

担当者は、確認してから折り返すと言って、電話を切った。

 

二時間後、折り返しの電話が来た。

「一度、業者を入れて確認させてください」

「何か、わかりましたか」

担当者は、少し躊躇してから言った。

「実は、前の入居者様のことで、一つだけお伝えしていなかったことがありまして」

「なんですか」

「前の入居者様は、かなり高齢の方でして、あのお部屋に二十年以上お住まいでした。数年前にご病気で亡くなられたのですが」

「それは、入居前に聞いてよかったんじゃないですか」

「おっしゃる通りなんですが、病死ですので告知義務の対象外でして」

「それで?」

「発見が、少し遅れてしまいまして」

俺は、黙って聞いた。

「どのくらい?」

「二週間ほど、経ってからの発見でした」

「どこで発見されたんですか」

担当者は、また躊躇した。

「奥の部屋の、クローゼットの中で見つかりました。ご本人が、中に入られた状態で」

 

俺は、電話を持ったまま、動けなかった。

 

「クローゼットの中に入って、亡くなったということですか」

「はい。詳しい経緯はわかっていないのですが」

 

 


 

 

今、俺は引っ越し先を探している。

あの部屋には、来月末まで住まなければならない。

契約の都合で、すぐには出られない。

 

毎晩、奥の部屋のクローゼットは開いている。

毎朝、洗面所の鏡は曇っている。

 

一つだけ、変わったことがある。

 

最近、鏡の曇りが、毎朝、少しずつ違う形になっている。

最初は気にしていなかった。

でも、先週から、気になって写真を撮るようにした。

 

昨日の朝、撮った写真を見返していた。

 

月曜日の曇り。

火曜日の曇り。

水曜日の曇り。

 

見比べていると、気づいた。

 

曇りの形が、毎日、少しずつ変わっている。

でも、一つだけ、変わらない部分がある。

 

鏡の右下、端の部分。

 

毎朝、そこだけ、曇っていない。

 

透明なまま、丸く残っている。

 

直径、十センチくらい。

 

 

手のひら、くらいの大きさだ。

 

 


 

 

今朝、洗面所に入った。

鏡を見た。

また曇っていた。

右下だけ、透明だった。

 

ふと思った。

 

もし、あの透明な部分が、毎朝、内側から拭かれているとしたら。

 

 

俺は、洗面所から出た。

 

 

来月末まで、あと三週間ある。

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