金が要る時期だった。家賃を二ヶ月ためて、大家からの封筒がポストに二通そのままになっていた。
求人はスマホの広告の隅みたいなところで見つけた。深夜の在室業務、二週間、日給三万二千円。載っているのは駅名だけで、あとは連絡先。
面接は駅前の喫茶店。依頼者は五十くらいの男で、ジャンパーの下がワイシャツだった。名刺は出さなかった。自分は管理を頼まれているだけなので、と言って、A4を一枚こちらに滑らせた。
・午前二時から午前九時まで、室内にいること ・その間、眠らないこと ・照明を消さないこと ・毎正時、台所の水道を十秒間出すこと ・玄関のチェーンは掛けないこと ・押入れは開けないこと。ただし一晩に一度、閉まっているかを確認すること ・インターホンが鳴っても出ないこと。鳴った回数をノートに記録すること ・退室のさい、玄関で「ただいま」と言うこと ・この部屋のことを誰にも話さないこと
読み終えて顔を上げると、男はおしぼりで指のあいだを拭いていた。
「難しいことは、ないでしょう」
ない。ないから、金額のほうが気になった。訊くと、男はカップの縁を見たまま、前の人が急に来なくなったので、と言った。それだけだった。
部屋は五階建ての四階、角部屋。築年数のわりに廊下はきれいで、蛍光灯が白い。玄関を開けると、たたきに靴はなかった。1DK。台所の床は少し波打っている。奥の和室に押入れ。窓のカーテンは分厚くて、閉めきってあった。開けていいとも悪いとも書いていなかったので、そのままにした。
ノートは卓袱台の上に置いてあった。大学ノート。表紙に何も書いていない。
一日目。二時に入って、九時に出た。何も起きなかった。毎正時に台所へ行って、蛇口をひねって数を数えた。十まで数えて止める。それを七回。押入れは閉まっていた。インターホンは鳴らなかった。帰りぎわ、たたきで「ただいま」と言った。声が思ったより大きく響いて、自分で少しおかしくなった。
三日目に、ノートの前のほうを見た。
自分の前に、少なくとも四人ぶんの字があった。ボールペン、鉛筆、青いインク。日付は入っていない。ただ正の字と、数字。一日ぶんの記録が一行。0、0、1、0、2、0、0。そんな並びが延々と続いて、ページの終わりのほうで数が増えていた。5、7、6、9。
いちばん最後、前の人の欄は途中で切れていた。数字ではなく、ひらがなで一行だけ。
かぞえないほうがいい
そこから白紙で、私の欄になっていた。
五日目の夜中、三時十二分にインターホンが鳴った。
ピンポン、と一回。廊下側の音だ。玄関を見ないようにして、ノートに1と書いた。そのあと十分ほどして、また一回。合計2。
覗き穴は使わなかった。使うなとは書いていない。使わなかった理由は、自分でもよく分からない。
七日目。うっかりした。四時の水を出し忘れて、気がついたら四時二十分だった。慌てて台所に立った。
シンクが濡れていた。
排水口のまわりに水が溜まって、まだ動いていた。蛇口の先から、水滴が一つ落ちた。
その晩は、それきり何もなかった。
八日目から、たたきに靴があった。私の靴だ。脱いだときは爪先を玄関のほうに向けて揃えた。九時に帰ろうとしたら、爪先が部屋のほうを向いていた。
十日目には、もう一足あった。
黒い、男物の革靴。踵がひどく磨り減っていて、片方だけ内側に倒れていた。私の靴の横に、少し斜めに。だれかが急いで脱いだみたいな置きかたで。
触らなかった。ノートに書く欄がなかったので、書かなかった。
押入れの確認は、毎晩やっていた。襖の合わせ目に指を近づけて、隙間がないかを見る。ずっと閉まっていた。
十一日目、合わせ目の下のほうに、髪の毛が一本挟まっていた。
長い。私のものではない。引き抜くべきかどうか迷って、そのままにした。翌日にはなくなっていた。
インターホンは毎晩鳴るようになった。3、4、4。
十二日目は6。鳴りかたが変わった。押しっぱなしにするのではなく、短く二回、間をおいて二回。人が呼ぶときの鳴らしかたで、こちらが起きているのを知っている鳴らしかただった。
十三日目、部屋に入ってノートを開いた。
前の晩の行が、7になっていた。
6と書いた。覚えている。二回ずつ、三組。数えて、書いて、ペンを置いた。7の字は私の書きかたと似ていて、最後のはらいだけが下に長かった。
たたきを振り返った。革靴がなかった。私の靴だけが揃っている。
三時前に、鳴った。
二回、間をおいて二回。ペンを持ったところで、また鳴った。今度は止まらない。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
指を離していない。押しっぱなしと連打のあいだみたいな鳴らしかたで、それが一分続いた。二分。ドアが薄く鳴っている。誰かが額を押しつけて、体重をかけているみたいに、金具のところが内へたわむ音。
出るなとは書いてある。見るなとは書いていない。
覗き穴に目を寄せた。
廊下の蛍光灯。誰もいない。誰もいないのに、鳴っている。
目を離そうとして、レンズの下のほう、床のあたりに何かが入った。爪先だ。黒い革靴の爪先が二つ、ドアのすぐ下から、こちらを向いて突き出ていた。壁のなかから生えたみたいに、それだけが。
鳴りやんだ。
たたきを見た。私の靴の横に、革靴があった。踵の磨り減った、片方が内側に倒れたやつが。廊下にあったものが、鍵とドアを一枚はさんだこちら側に。
奥の部屋で、音がした。
木が擦れる音。襖だ。
和室の電気はつけっぱなしにしてある。畳の上、押入れの襖が、下のほうだけ指一本ぶん開いていた。
隙間から、人の指が四本出ていた。
内側から襖の縁を掴んで、開かないように押さえている手だった。爪が黒い。手首から先しか見えない。
私が息を吸った音を聞いたのだと思う。指がそろりと引っ込んで、襖が音もなく閉じきった。
なかで、声がした。低い、ぼそぼそした男の声。
「はち。きゅう。じゅう」
数えていた。
蛇口の数を、私の代わりに。
四時の水は、出さなかった。五時も、六時も。台所に立てなかった。それでも毎正時、襖の向こうで十まで数える声がした。九時まで、ずっと。
その晩のノートに、私は何も書かなかった。
十四日目。最後の夜。
インターホンは一度も鳴らなかった。水を七回出した。押入れを見にいった。
これまででいちばん、きれいに閉まっていた。合わせ目に隙間がない。襖と柱のあいだも、紙一枚入らないくらいぴたりと。指を近づけると、そこだけ空気が冷たかった。
八時を過ぎたころ、玄関のほうで床が軋んだ。人が体重を移したときの音だ。座ったまま、九時まで動かなかった。
九時。荷物をまとめて、たたきに降りた。革靴はなかった。私の靴だけが、爪先を部屋のほうに向けて置いてある。
履いて、ドアノブに手をかけて、言った。
「ただいま」
言ってから、なぜこれを言わせるのかが分かった。
帰る、と言わせないためだ。
喫茶店で、ノートを渡した。男は中を開かずに封筒にしまった。
「言いましたか」 「言いました」 「そう」
金は現金だった。数えなくていいですよと言われたが、その場で数えた。合っていた。
自分の部屋に帰って、鍵を開けて、電気をつけた。
玄関に、黒い革靴が揃えてあった。踵が磨り減って、片方が内側に倒れている。爪先は、部屋のほうを向いていた。
チェーンが外れていた。掛けて出たはずだった。
依頼者に電話をかけた。何度かけても、呼び出し音の途中で切れる。三度目だけ、切れる直前に音が変わった。誰かが受話器を持ち上げて、何も言わずに置いた音。
うちはワンルームで、押入れはない。クローゼットが一つあるだけだ。
そのクローゼットが、二時になると、下のほうだけ指一本ぶん開く。
開けない。近づいて、閉まっているかだけを確かめる。それから台所に行って、蛇口を十秒。毎正時、九時まで。
やめたことが一度だけある。三日前、水を出さずに布団に入った。
朝、玄関の靴が全部、部屋のほうを向いていた。私のも、革靴も、それから見たことのない小さいのが二足。
だから続けている。
最近、なかの声が私の数と合わなくなってきた。十で止めても、向こうは止まらない。
じゅういち。じゅうに。
そこまで来ると、笑うような息の音がする。
この話をしている時点で、私はもう一つ、約束を破っている。
