向かいのおばあさん

小学校の低学年の頃、向かいの家におばあさんが一人で住んでいた。

名前は知らなかった。近所の大人たちも、あまりそのおばあさんの話をしなかった。母に聞くと、「ずっと前からあそこに住んでる人」とだけ答えて、それ以上は話さなかった。

外見は、よく覚えている。

背が低くて、いつも同じ紺色の着物を着ていた。白髪を後ろで束ねていて、顔の皺が深かった。

特別、怖そうな見た目ではなかった。

ただ、一つだけ、子供心に気になっていたことがあった。

そのおばあさんは、毎朝、玄関の前に立って、道を行き来する人を眺めていた。

ただ、眺めているだけだった。

誰かに話しかけるわけでも、挨拶するわけでもない。

ただ、じっと、立って、見ていた。

 

 


 

 

最初に変だと思ったのは、小学二年生の秋だった。

学校から帰ってくると、おばあさんが道の真ん中に立っていた。

いつもは玄関先にいるのに、その日は、道の真ん中で、こちらをじっと見ていた。

俺は、足が止まった。

おばあさんとの距離は、五メートルくらいだった。

向こうも、俺のことをじっと見ていた。

目が合った。

おばあさんは、ゆっくりと、口を開けた。

何かを言おうとしているように見えた。

でも、声は出なかった。

口だけが、何度も、ゆっくりと動いていた。

俺は、怖くなって、走って家に帰った。

 

 


 

 

それから、俺はそのおばあさんのことが気になって仕方なくなった。

学校の行き帰りに、なるべく向かいの家を見ないようにしていた。

でも、どうしても、視線を感じた。

ある日、思い切って見てみると、おばあさんが玄関先から、こちらをじっと見ていた。

目が合うと、おばあさんは、にっこりと笑った。

普通の笑顔だった。

でも、俺はなぜか、背筋が冷たくなった。

 

友達にその話をすると、「俺も見たことある」と言った。

「あのばあさん、変だよな」

「変って、どういう風に?」

「夜中に外に出てることがある」

「夜中に?」

「うん。俺、夜中にトイレ起きて、窓から外見たら、道の真ん中に立ってた。こっち見てた」

 

 


 

 

ある日の夕方、俺は一人で家の前で遊んでいた。

ふと気づくと、おばあさんが、すぐそこに立っていた。

気配がなかった。

気づいたら、俺の目の前、二メートルくらいのところに、立っていた。

俺は、声も出なかった。

おばあさんは、俺の顔を覗き込むように、少し前傾みになって、じっと見てきた。

間近で見ると、目が、思ったより大きかった。

瞬きを、していなかった。

ずっと、瞬きをしないで、俺の顔を見ていた。

 

「おまえ、何番目だ」

 

おばあさんが、突然、そう言った。

低い声だった。

意味がわからなかった。

「え?」

おばあさんは、また同じことを言った。

「おまえ、何番目だ」

俺は、何も答えられなかった。

しばらくして、母が玄関から出てきて、俺を見つけた。

「あら、ごめんなさいね」

母は、おばあさんに向かって笑顔で言った。

おばあさんは、何も言わずに、自分の家に戻っていった。

「あのおばあさん、何番目って聞いてきた」

俺が言うと、母は、一瞬、表情が固まった。

それから、「気にしなくていい」と言って、俺を家の中に連れていった。

 

 


 

 

その冬、そのおばあさんが死んだ。

近所の人たちが集まって、ひっそりと葬式が行われた。

俺は、母に連れられて、一度だけ、お悔やみに行った。

家の中に入ると、線香の匂いがした。

仏壇の前に、遺影が飾られていた。

紺色の着物を着た、おばあさんの写真だった。

 

俺は、ふと、廊下の壁に気づいた。

白い紙が、一枚だけ、貼り付けられていた。

近づいてみると、家族の名前だった。

俺たちの家族の名前だった。

長男、次男、そして俺の名前。

それぞれの名前の横に、数字が書いてあった。

 

長男には「1」。

次男には「2」。

俺の名前の横には、「3」と書いてあった。

 

そのときは、単純に出生順だと思った。

長男、次男、三男。

そういうことか、と思って、それ以上は気にしなかった。

 

 


 

 

俺が大学に入った年、長男が事故に遭った。

バイクで走っていて、対向車と正面衝突した。

一ヶ月入院した。

 

その二年後、次男が工場で機械に右腕を挟まれた。

骨が数本折れた。

半年、仕事を休んだ。

 

二人とも、一命は取り留めた。

 

 

そのとき、はじめて気づいた。

あの壁の紙のことを、思い出した。

 

長男には「1」。

次男には「2」。

俺には「3」。

 

出生順じゃなかったとしたら。

 

 

俺には、まだ、何も起きていない。

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