ワンルームのアパートに引っ越したのは、去年の秋だった。
会社まで電車で四十分。家賃は六万八千円。日当たりがよくて、ベランダが思ったより広い。気に入った物件だった。
引っ越して二週間ほど経ったある朝、ベランダに見覚えのないシャツが干されていた。
最初は本当に気のせいだと思った。
俺は一人暮らしで、シャツの種類なんて自分のしか着ない。前の日に洗濯した記憶もないから、寝ぼけてやったのかもしれない。
そのまま放置して、仕事に行った。
帰ってきて、ベランダを見た。
シャツは、まだそこにあった。
近くで見ると、明らかに俺のものじゃなかった。
色は白だが、襟の形が違う。襟がやや高めの、ビジネスシャツだった。俺は普段、ビジネスシャツを着ない。仕事は私服可で、シャツを着るとしてもポロシャツしか持っていない。
そして、サイズが違った。
俺はSサイズだ。
そのシャツは、明らかにLサイズだった。
「誰だ、これ」
声に出して呟いた。
ベランダは、隣の部屋とは仕切られている。プラスチックの薄い板で、人間が無理に押せば破れる程度の仕切り板だ。
隣の部屋から飛んできた、と考えるのが一番自然だった。
俺は、シャツを取り込んで、玄関の外に出した。
「すみません、これ、お隣さんのですか」
隣の部屋のチャイムを鳴らした。
返事はなかった。
その夜、ふと思い出して、もう一度隣のチャイムを鳴らした。
やはり、返事はなかった。
そういえば、引っ越してきてから一度も、隣の人を見ていなかった。
挨拶もしていない。
物音も、聞いたことがなかった。
「空き部屋なのかな」
そう思った。
シャツは、玄関先に置いたまま、寝た。
翌朝、玄関を出た。
シャツはなかった。
誰かが取りに来たのだと思った。
少し、安心した。
それで終わりだと思った。
二日後の朝、ベランダに、また何かが干されていた。
今度は、ハンカチだった。
濃い紺色の、男物のハンカチ。
風で飛んできたのかと思って、手に取った。
濡れていた。
洗濯したばかり、という感じの濡れ方だった。
俺は、その日の朝、洗濯はしていなかった。
ハンカチを、また玄関先に出した。
「すみません」と書いた紙を添えて、隣のドアの前に置いた。
夜、帰ってきた。
ハンカチも、紙もなくなっていた。
「ああ、誰かいるんだな」
そう思った。
挨拶のタイミングを逃したまま、隣の人と関わるようになっていた。
少し気まずかった。
でも、まあ、こういうこともあるかと思った。
一週間後。
ベランダに、靴下が一足、干されていた。
俺のじゃなかった。
同じ日に、台拭きが一枚、洗濯バサミで吊るされていた。
これも、俺のじゃなかった。
毎週、何かが、俺のベランダに干されるようになった。
タオル。
下着。
エプロン。
頻度が、増えていた。
最初は二、三日に一度だったのが、毎日になっていた。
俺は、その都度、玄関先に出すのをやめた。
そのまま、置いておくようにした。
夕方には、なくなっていた。
誰かが取りに来ているのは、明らかだった。
ただ、不思議だったのは、
俺は、隣の人の物音を、一度も聞いたことがない。
ということだった。
おかしいと思い始めたのは、引っ越してから三ヶ月経った頃だった。
ある朝、ベランダに干されていた洗濯物の中に、子供用のシャツがあった。
幼稚園児くらいの、小さなシャツだった。
「子供がいるのか」
俺は、隣の家族構成について、何も知らなかった。
物音もしない。声も聞こえない。子供がいるなら、絶対に何か聞こえるはずだった。
その日、初めて、俺は不動産屋に電話した。
「隣の部屋って、どういう人が住んでるんですか」
担当者は、少し間を置いてから言った。
「お隣のお部屋、現在は空室ですよ」
「は?」
「半年以上、入居者はいません」
電話を切った後、しばらく動けなかった。
その日の夜、俺はベランダに出た。
仕切り板の向こうを覗いた。
隣の部屋のベランダは、何もなかった。
物干し竿だけがあって、何も干されていなかった。
部屋の中も、暗かった。
カーテンも引かれていなかった。
中を覗くと、空っぽの部屋が見えた。
家具も、何もなかった。
「本当に、誰もいない」
俺は、震えていた。
じゃあ、毎朝、誰が、何のために、俺のベランダに洗濯物を干しているのか。
そして、誰が取りに来ているのか。
俺は、防犯カメラを買った。
ネット通販で、一万円ちょっとの、屋外用のやつ。
ベランダに向けて設置した。
二十四時間、録画できるタイプだった。
設置した翌朝、ベランダにシャツが干されていた。
紺色のポロシャツ、男物、Lサイズ。
俺は、興奮しながら、録画を確認した。
朝の四時三十二分。
映像が、急に乱れた。
ノイズが入って、画面が真っ白になった。
そのノイズが二十秒ほど続いた。
ノイズが消えると、ベランダにシャツが干されていた。
そういう映像だった。
カメラの故障かと思った。
でも、その日の夜、夕方に取り込まれた瞬間も、同じだった。
夕方の六時十一分。
ノイズが入って、二十秒間、画面が真っ白になった。
ノイズが消えると、シャツがなくなっていた。
毎日、同じだった。
朝四時台と、夕方六時台。
その時間だけ、ノイズで何も映らない。
俺は、別の方法を試すことにした。
スマホを定点で撮影モードにして、ベランダに向けて置いた。
普通のスマホのカメラなら、映るかもしれないと思った。
朝の四時に、目覚ましをかけた。
四時に起きた。
スマホの録画を、止めずにそのまま見続けた。
四時三十二分。
何かが、起きた。
スマホの画面が、急に暗くなった。
電池切れではなかった。
でも、画面が真っ暗になった。
数秒後、また映った。
ベランダに、シャツが干されていた。
リアルタイムで見ていたのに、シャツが現れる瞬間は、映らなかった。
俺の目では、見えなかった。
そして、その瞬間、
ベランダの仕切り板の向こうで、何かが動いた気がした。
仕切り板が、わずかに揺れていた。
風はなかった。
俺は、ベランダに飛び出した。
仕切り板を覗き込んだ。
隣のベランダには、誰もいなかった。
部屋の中も、相変わらず空っぽだった。
ただ、隣の部屋の窓に、薄く、何かが映っていた。
ベランダの外の景色が、ガラスに反射しているのだとは思う。
でも、その反射の中に、俺の姿の隣に、もう一つ、人の形があった。
俺は、一人だった。
それから、俺は引っ越しを真剣に検討し始めた。
不動産屋に相談したが、契約期間中の解約は、違約金が発生すると言われた。
二年契約で、まだ一年も経っていなかった。
違約金は、家賃二ヶ月分だった。
十三万円ちょっと。
それくらいなら、払う気でいた。
でも、引っ越し先を探している間、洗濯物は毎日干され続けた。
ある日、玄関を出ると、隣のドアの前に、何かが置いてあった。
近づいてみた。
ハンガーだった。
俺の使っているハンガーと、同じ種類のハンガーが、五本、束ねて置いてあった。
「誰かが返してくれたのか」
俺は、それを部屋の中に持ち帰った。
数えてみると、自分のハンガーが、ちゃんと足りていた。
つまり、置かれていたハンガーは、俺のじゃなかった。
俺と全く同じ種類の、別のハンガーだった。
その夜、ベランダで、また物音がした。
仕切り板の向こうから、規則正しい音だった。
カチャ、カチャ、と。
ハンガーを、物干し竿にかける音だった。
俺は、息を殺して、ベッドの中で耳を澄ませていた。
カチャ、カチャ、カチャ。
少なくとも、五つくらいのハンガーが、かけられた。
それから、シーツのような布が広げられる音がした。
最後に、洗濯バサミの音が、いくつか。
すべての音が、俺のベランダから、聞こえた。
仕切り板の向こうではなく、俺のベランダから。
俺は、動けなかった。
朝、ベランダを見た。
シーツと、シャツと、靴下と、ハンカチが、干されていた。
全部、俺のじゃなかった。
そして、初めて気づいたことがある。
干されていた洗濯物は、すべて、俺と同じ家族構成のものだった。
男物のシャツが何枚か。靴下が一足。
家族なんていない、一人暮らしの俺と、同じ構成だった。
俺は、その週末、引っ越しの内見に行った。
不動産屋は、別のエリアの物件を紹介してくれた。
家賃は少し上がるが、築浅で、防犯設備もしっかりしていた。
決めた。
引っ越しは、二週間後。
その間、ベランダの洗濯物は、毎日干され続けた。
俺は、もう取り込まなかった。
干されたまま、放置していた。
夕方になると、消えていた。
誰かが取り込んでいた。
引っ越しの前日。
最後の夜、俺はベランダに干されている洗濯物を、初めて、じっくり眺めた。
シャツが二枚。
下着が一枚。
靴下が一足。
ハンカチが一枚。
全部、自分のサイズと、ほぼ同じだった。
ふと、シャツの襟元に、何かがついているのに気づいた。
近づいて、見た。
ネームタグだった。
子供の頃、母親が縫い付けてくれた、あの、白い布のネームタグ。
俺の名前が、書かれていた。
俺の、フルネームが。
引っ越しが終わった。
新しい部屋に移った。
ベランダに洗濯物が干されることは、二度となかった。
普通の生活に戻った。
それから半年が経つ。
ただ、一つだけ、気になっていることがある。
引っ越しの荷物を整理しているときに、古いアルバムが出てきた。
子供の頃の写真が、何枚か入っていた。
母親が、まだ若い頃の写真だった。
その中に、俺が四歳くらいのときの、家族写真があった。
両親と、俺。
俺は、一人っ子だ。
ずっと、そう思っていた。
ただ、その写真の中で、俺の隣に、もう一人、子供が写っていた。
俺と、同じくらいの年の、男の子だった。
俺によく似ていた。
裏返してみた。
母親の字で、何か書いてあった。
二つの名前と、日付。
一つは、俺の名前。
もう一つは、知らない名前。
その名前の横に、俺の生まれた日と、まったく同じ日付が書かれていた。
俺は、母親に電話した。
「お母さん、俺、双子だった?」
母は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「そんなこと、誰に聞いたの」
「写真があった」
「そう」
母は、それ以上は何も言わなかった。
「もう一人いたの?」
「いたよ」
「どうしたの」
母は、また長い沈黙の後に、答えた。
「生まれてすぐに、亡くなったから」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
「なんで、教えてくれなかったの」
「あなたが大きくなったら話すつもりだった。でも、機会がなくて」
「お墓は、どこにあるの」
母は、その時だけ、少し声を詰まらせた。
「お墓は、ない」
「え?」
「あの頃は、生まれてすぐに亡くなった子は、お墓を作らなかったの」
「じゃあ、どうしたの」
「お骨だけ、家に置いてあるよ」
「家に?」
「あなたが住んでた、あの部屋にも、ずっと置いてた」
俺は、電話を切った後、しばらく動けなかった。
実家に住んでいた頃、お骨が家にあるなんて、知らなかった。
母が、どこにしまっていたのかも、わからなかった。
ただ、一つだけ、思い出したことがある。
あの、空っぽの隣の部屋。
俺の部屋と隣り合っていた、誰もいなかった部屋。
ベランダに、洗濯物が干されていた部屋。
あれは、俺の家ではなく、隣の部屋だった。
俺ではなく、隣の人のための、洗濯物だったのかもしれない。
ただ、一つだけ、気になることがある。
ネームタグに、俺の名前が書かれていた。
俺の、フルネームが。
俺は、母に、もう一度電話した。
「亡くなった子の名前って、何だったの」
母は、少し躊躇してから、答えた。
「あなたと、同じ名前にする予定だったの」
「同じ名前?」
「うん。お父さんが、その名前を気に入っていて。でも、その子が生まれてすぐに亡くなって、その名前を、あなたにつけることになったから」
俺の名前は、
本当は、
俺のものじゃ、なかった。

